2025年12月17日(水)

日本不在のアジア最前線──教育とリテラシーが招く空洞化

2025年12月15日

世界一の高齢社会という「実験場」を活かせていない日本

 本来であれば、こうした潮流の中心には日本がいてもおかしくない。世界最速で高齢化し、すでに人口の約3割が65歳以上という現実。がん、糖尿病、心血管疾患、認知症──ありとあらゆる慢性疾患のエビデンスが、日本ほど豊富に蓄積された国は他にない。再生医療やiPS細胞、医療機器、在宅医療のノウハウ、介護保険制度など、「課題先進国」としての知見も膨大である。

 ASPAC地域では、2050年に高齢者人口が13億人に到達する見込みであり、糖尿病・心血管・腎疾患の患者増加に伴い、医療・介護の統合需要が構造的に拡大している。医療費は右肩上がりで、民間資本の参入を後押しする環境が整っている。つまり、日本が持つ「高齢社会対応ノウハウ」は、アジア全域で圧倒的な需要があるのである。

 しかし、日本がこれらを統合した「ビジネスモデル」を輸出できているかというと、答えはきわめて心許ない。日本発の医薬品や医療機器は世界に出ていっても、日本の高齢者ケアモデルや地域包括ケアのオペレーションそのものが、アジアで「パッケージ」として展開されている例は決して多くない。むしろ、アジアの病院の現場では、シンガポールや欧米資本の病院チェーンや医療IT企業の名前を目にすることの方が増えている。

 前述のM&Aやスタートアップ地図を見ても、日本企業の存在感は限定的である。武田薬品によるShire買収(620億ドル)、第一三共のADC技術(Enhertu)、エーザイのアルツハイマー病薬(Lecanemab)、HeartseedのiPS心筋細胞といった例外的な成功事例はあるものの、全体としては「仕掛け人にも買い手にもなれない傍観者」という構図が、ここでも繰り返されている。

 なぜ世界一の高齢化社会でありながら、その経験値を「輸出可能なモデル」に昇華できていないのか。そこには、ヘルスケアを「産業」として設計できない構造的な弱さが横たわっている。

薬漬けの老人、病院サロン、超低賃金介護:光と影の「影」だけが濃くなる

 日本の高齢者医療・介護の現場に足を運ぶと、別の意味で世界に類を見ない光景が広がっている。診察のたびに処方が上乗せされ、10種類以上の薬を飲み続ける高齢者。話し相手と居場所を求めて「病院通い」を続けざるを得ない社会的孤立と貧困。中には、外来待合室が実質的な「高齢者サロン」と化し、本来の医療ニーズと、孤独を埋めたいという生活ニーズが混在しているケースも少なくない。

 多剤併用(ポリファーマシー)は、医学的には副作用リスクの増大、服薬アドヒアランスの低下、医療費の増加をもたらす深刻な問題である。しかし、高齢者本人が「薬を減らすのが不安」と感じ、医師も「訴訟リスク」や「患者満足度」を考慮して処方を続けるという、いわば「共依存」の構造が存在している。

 その一方で、こうした現場を支えている看護師や介護職の賃金水準は、他の産業と比べて驚くほど低い。身体的にも精神的にもハードな仕事でありながら、長時間労働と人手不足が常態化し、離職と新人採用のサイクルが繰り返される。技能や経験が正当に評価されず、賃金と処遇に反映されない構造の中で、現場の疲弊だけが加速していく。

 本来であれば、「世界一の高齢社会で培ったケアモデル」として、医療・介護・リハビリ・予防・生活支援を組み合わせた統合サービスが、アジア各国に提供されていてもおかしくない。しかし現実には、ヘルスケアを支える人材は低賃金に据え置かれ、高齢者は薬と通院で日々を埋め、医療機関は「本来の医療」と「疑似サロン機能」を抱え込んだまま、制度と慣行に縛られている。

 言い換えれば、日本は世界に先駆けて高齢化の「闇」を体験しながら、その闇をブレイクスルーするビジネスモデルや産業構造を構想しきれていないのである。ここには、第1回・第2回で見てきた「技術はあるが、ゲームに勝つ戦略を描けない」日本の姿が、医療・介護という生活の核心領域でそのまま再現されている。


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