陸奥が重い病いをおしてこの回顧録を執筆したのが、大磯にある陸奥の別邸「聴漁荘」だった。24年の冬に訪ねた際、うららかな陽射しの中、海の音が響いてきた。
付近に伊藤や大隈といった明治の元勲たちの別邸も移築、あるいは再現されており、大磯市によって丁寧に維持、管理されている。その生涯を知ることは近代史をたどることでもある。東京からも近いので、訪ねてみてはいかがだろうか。
戦争で引きはがされた夫婦
そこからやや時代が下り、大陸への進出を強める日本は中国北東部に満洲国を樹立し、清の皇帝だった溥儀を担ぎ出す。日満友好の証として溥儀の弟の溥傑に嫁いだのが「流転の王妃」と呼ばれた嵯峨侯爵家の浩だった。
二人が新婚時代を過ごした仮寓がいまも千葉市によって保存されている。邸内に展示される二人の写真は幸福感に満ちているが、第二次世界大戦後の混乱の中で二人は引きはがされ、再会を果たすのは1961(昭和36)年まで待たねばならなかった。
再会後、浩は溥傑とともに中国に残る道を選び、国交回復後の74(昭和49)年、夫婦そろって、日本の土を踏んだ。二人が訪れたのは稲毛海岸に臨むこの家であり、遠く袖ケ浦を望見しつつ、溥傑は哀切に満ちた漢詩を詠んだ。その漢詩が邸内に残されている。溥傑は生涯、新婚時代の思い出を忘れ難かったようだ。
アメリカで展開された〝反日プロパガンダ〟
最後にもう一つ、24年末に一般公開されて話題となった近衛文麿の邸宅「荻外荘」もまた、示唆に富むといえようか。日中戦争から日米開戦に至る重大な外交指針が、この邸宅の一室で論議されていた。
満洲事変後の日中戦争が泥沼となる中、国民の期待を背負って首相の座についた近衛だったが、軍部の圧力に屈して休戦に失敗する。さらに、再度の首相登板の際、対立を深めるアメリカとの融和を目指して渡米を模索するも、アメリカ国内で対日強硬論が高まり、日米交渉は挫折に追い込まれる。
背後にあったが、蒋介石がアメリカ国内で仕掛けた反日プロパガンダだったと聞けば、何やら、遠い歴史と片付けるわけにはゆかなくなる。今、中国は国連はじめ、世界の至るところで根拠なき対日批判を強めている。これに対抗する策を今回こそ日本は持たねばならないだろう。
