2025年12月27日(土)

偉人の愛した一室

2025年12月27日

 近衛は、連合国軍総司令部(GHQ)支配の戦後日本で、政治家としての再起が認められるだろうと考えていた。戦争回避の道を模索していたからだ。だが、GHQから逮捕状が出されたと聞かされ、この荻外荘でピストル自殺する。

書斎の仏壇には近衛文麿が好んだ「黙」の字が刻まれている

 その一室が当時のままに保存されているのだが、筆者が目を引かれたのは壁にくり抜かれた仏壇だった。五摂家筆頭、天皇家を長く輔弼してきた名家の位牌に見つめられ、当人は何を思ったのだろうか。高級住宅地から荻窪駅へと戻る道すがら、筆者の頭にあったのはそのことばかりだった。

日本経済の「礎」築いた経済人

 この秋、紅葉鮮やかな甲斐路を走って訪ねたのは〝鉄道王〟 根津嘉一郎の生家だった。この取材と、夏に訪ねた滋賀県の伊藤忠兵衛の生家で考えされられたのが、日本独自の商人哲学についてだった。忠兵衛は日本を代表する総合商社、伊藤忠商事と丸紅を創業した人物である。

 根津が成長する過程で頼りとしたのが甲州財閥、山梨出身の経済人の集まりだった。〝財閥〟と呼ばれつつ、その結びつきはゆるやかなもので、特筆すべきは、彼らが鉄道と電力という社会インフラの将来性に目をつけ、横浜港の生糸貿易で儲けた蓄えを積極的に投資していったことだ。

 東武鉄道が根津によって大きくなったことはよく知られている。だが、東京を中心とする首都圏の鉄道網や電力網の整備に山梨県人が多大な貢献をしたことは、多くの東京人はご存知ないだろうと思う。

 こうした財界人の接客の場として、また、名高い茶人でもあった根津が数寄者たちを招く場として、生家の敷地に作った施設が山梨市によって復元されている。趣向を凝らした茶室や庭園の見事さはもとより、借景とする甲州の山々、その先に顔をのぞかせる名峰富士は招かれた客には何よりのもてなしだったろう。

 根津家は山梨で二番目に大きな地主だったという。その豪勢な主屋も必見、甲斐の名所としてぜひ訪れていただきたい。

 もう一人の伊藤忠兵衛は、ご存知、近江商人を代表する人物である。忠兵衛はじめとする琵琶湖近辺の商人たちは、特産の麻織物を近畿圏のみならず、遠く九州へと売りさばいていったのだが、心がけたのが〝三方よし〟だった。

伊藤忠兵衛旧宅の入口を入ってすぐに置かれた本家日誌。本家で勤務する店員が日常や来客情報を記帳していた

 売り手によし、買い手によし、そして世間によし、つまり社会に貢献することを是とする商人道であり、ことに、卸売りで訪ねた地への貢献を心がけていた。さらに忠兵衛は、利益を本家(忠兵衛は分家だった)と使用人とで三等分し、今で言えば、資本家と会社、そして従業員に分配する制度を敷いてみんなに報いようとした。


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