情緒を重んじてきた日本の教育
英国等に学ぶべきこと
では、個人が科学リテラシーを高めるために必要なこととは何か。「まずは何より、教育だ」と石浦氏は力説し、こう続ける。
「日本の教育は、事実の理解や知識の整理に重点が置かれる一方で、根拠をもとに自分の考えを組み立てる訓練が十分とはいえない。
例えば、小学校の理科の観察では『どう感じたか』と感想を求める場面が多いが、本来は観察した結果をもとに、『なぜそうなるのか』などを説明する練習こそが重要だ」
石浦氏によれば、日本の理科教育が、能動的に学習する力を養うことが英国などと比較して弱く、その点が大きな課題だという。
「英国などの中等教育では、例えば原子力や放射性廃棄物などのトピックを扱う際、『技術が社会にどのような影響を与えるか』、『利点や課題は何か』など、社会的影響や価値判断まで議論する学習が取り入れられている。一方、日本の教科書では、放射線の種類の説明や半減期など『事実』の説明に偏り、原子力の持つ意味や、社会のために使いこなす意義はほとんど述べられていない」
また加えて、メディアの力も欠かせないという。「テレビなどのメディアも多くの人に科学に関心を持つきっかけを提供するという点では重要な役割を担っている」(同)。
もちろん、人々の興味を引く工夫は科学的な判断とは別次元にあり、「科学的な根拠に基づいて、どう判断するか」は、最終的には個人の思考の中で生まれるものだ。しかし、そもそも科学に触れるきっかけが少なければ、科学的思考力を養う土台が生まれないのも事実である。自戒を込めてだが、SNS全盛時代において、既存メディアの企画力や発信力強化も必要だろう。
そして何より、個人が身につけるべき考え方とは、「どのような科学的根拠も、『確率』として評価する姿勢だ」と、石浦氏は強調する。
「科学は本質的に不確実性を伴うものであり、『絶対に安全』や『絶対に危険』と断言することはできない。科学的判断とは、得られたデータからどれほどの確率でリスクがあるかを推定し、社会として許容できるかどうかを考えることである」
我々は科学情報を受け取ると、「絶対的な安全性」を求めたくなる。だが、この「絶対」を求める姿勢そのものが、非科学的であり、それを理解しないまま議論しても、帰着すべき方向性から遠ざかってしまう。コロナ禍におけるワクチン問題でも、問うべきなのはゼロリスクかどうかではなく、接種することのリスクと個人や社会全体が得られるベネフィットのバランスであったはずだ。
原発についても同様だ。資源の少ない日本は、高度経済成長期以降、原発によるエネルギー発電に支えられてきた。ただし、誤解を恐れず踏み込んでいえば、東日本大震災以前の日本の原子力政策は、科学的にはありえない「絶対安全」を標榜し、その隘路に陥ってきた。
「『安全・安心』とよく言われるが、安全は科学的根拠に基づくもの、安心はその人の考えによるもの。両者は区別して扱うべきだが、当時の政府はそれができていなかった」(同)
東京電力・福島第一原発事故では本来、リスクを隠さず「公」にして〝科学的に〟説明し、そのリスクを「いかに最小限にするか」という点にこそ、技術と労力をかけるべきであった。各地で原発が再稼働しつつあるが、我々は、この教訓を忘れず、今度こそ科学的な根拠に基づいて開かれた議論ができるよう、社会全体の意識も変えていかねばならない。
生成AIが膨大な情報を生み出し、SNSにより拡散できるようになった今、真偽不明の情報に振り回されず、科学的根拠と確率的思考に支えられた判断力を養うこと。それこそが、混迷の時代を生き抜く我々が身につけるべき、新たな教養なのではないだろうか。
