2026年2月14日(土)

日本不在のアジア最前線──教育とリテラシーが招く空洞化

2026年2月14日

教育論の空白地帯:「能力の層」を国家戦略として取り戻す

 今回の選挙でも、「教育」の重要性を訴える政党は少なくなかった。ただ、その議論は大きく2つに偏りがちである。ひとつは、歴史観や文化の尊重、道徳や規律といった価値観の領域。もうひとつは、無償化や給付、教員待遇などの制度・財源の領域だ。いずれも重要な論点であり、必要な議論であることは間違いない。

 しかし、「もう一度日本を強くする」という目標を、産業と制度の現実に落とし込むなら、このような教育論は明らかに不十分だ。強い日本とは、スローガンで強くなるのではない。強い日本とは、強く安定した政治をレバレッジに、価値を生み出し、その価値が産業や制度を通じて世界を変革していくまでの「仕組み」をつくり、その過程で世界を豊かにしながら正当な対価を享受できる国である。

 そのために必要なのは、教育の「目的」と「評価軸」の再設計だ。知識を増やすことでも、文化を尊ぶことでも、授業料を無償化することでもない。もちろんそれらは要素として必要だ。だが中核は、先に述べたような「能力」、即ち価値創造・調停・責任ある行動を、社会全体として再現性のあるかたちで育てることにある。

 教育論を三層構造で整理してみたい。第一層は「価値」:何を大切にするか。第二層は「制度」:どう整えてどう配るか。そして第三層が「能力」:何ができる人間をどう育てるか。このような整理を行うと、今の日本の教育議論は、第一層と第二層に光が当たりやすい。そして第三層の「能力」に関しては、常に議論が「学歴」へと代替されてきた事情がある。

 本来、学歴とは「学びの履歴」であり、自らが何を身につけてきたかを示すための社会的な証明である。だが日本ではいつしかそれが「どの学校名か」という記号に置き換わり、能力の議論そのものが回避されてきた。だが、国家の実装能力を決める教育の本質は紛れもなく第三層である。ここが空白のままでは、どれだけ立派な理念を掲げ、どれだけ予算を付けても、現場で価値に変換されない。結果として「決して間違えず、『正解』に早くたどり着こうとする人間」を延々と再生産することになり、社会は引き続き立ちすくむのである。


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