戦国時代の常識だった3日分の兵粮自己負担の原則を破り、決戦当日までだけで1億円以上の出費を引き受けていた。これでさらに信長が決戦を避け(あるいは決戦に負けて)清須城に籠もった場合、さらに加えて尾張から美濃、近江と進んだ場合、補給経費はねずみ算式に膨らんでいき10億、100億と天文学的額になって今川家は完全に破産してしまう。なにせ義元は美濃・近江に何も工作をしていない(少なくとも史料に残っていない)のだから、いちいち時間がかかるに違いないし、2万5000という兵力も各地に残していけば京に入った暁には供廻りだけ、などという笑えない状況にもなりかねない。
今川と織田のマネー戦争
結論から先に言うと、義元の目的は織田方に包囲された大高城の解放と強化だった。
合戦本番前夜の永禄3年(1560年)5月18日、今川軍2万5000の先鋒たる松平元康(のちの徳川家康)率いる岡崎衆によって大高城に兵粮が強行搬入された。この「大高城兵粮入れ」については、決戦直前にわざわざそんな行動をとるものかと、史実かどうか疑問視する向きもあるが、そんなことは無い。
『信長公記』には大高城には「たぶたぶ(たっぷり)」と今川守備兵が配備されている状態だったと書かれている。その数は1000人程度と推定でき、それが1日で消費する米は1人5合、全体で5石。
7カ月前にも岡崎衆が大高城に兵粮入れをしているが、今回元康がじきじきに指揮して運び込んだ兵粮の量が450俵=180石だから、それ以上ということは無いとして、前回分は3分の1の量で細々と食いつないだとしてもすでに食べ尽くして3カ月。城は完全包囲されており、近くの味方である鳴海城も孤立して、自分の分だけで精一杯。援助など期待できないのである。
後は元からあった古米や自家栽培の野菜、それも尽きれば松の皮や草を食べて生きながらえるしかなかったはずだ。織田方の包囲下にある大高城は、いつ開城降伏しても不思議ではない状況だった。
だからといって、今川方が大高城を見捨てることは絶対にできない。それは義元の対織田戦略の最重要拠点だったからだ。
大高は城下まで遠浅の海が迫り、城には舟入(港)もあった。7年後のことだが、里村紹巴(本能寺の変直前、「ときは今」で有名な明智光秀の「愛宕百韻」に参加した連歌師)は熱田から大高城まで舟で移動している。熱田から大高城までは徒歩2時間かかるが、風向きと潮の満ち引き・流れの方向次第で舟を用いる方が断然速くて楽になる。
つまり、大高城は海の玄関のひとつであり、熱田・津島・伊勢安濃津・伊勢大湊・常滑など伊勢湾交通ネットワークを構成していた。遠浅であるから小型舟しか出入りできないが、海の関所として海上交通を制するには充分だ。
義元としてはこの城の機能を完全に稼働させれば織田家のシーレーンを破壊し、信長マネーを枯渇させることができるのだ。それが分かっている信長も、何がなんでも義元の企図を潰さなければならなかった。ドラマの豊臣兄弟はそのマネー戦争に巻き込まれたのである。
『信長公記』(奥野高広・岩沢愿彦校注、角川文庫)
『改正三河後風土記』(秋田書店)
『群書類従 第十八輯 日記部 紀行部』(続群書類従完成会)
『大人の新常識 時代劇のウソ?ホント?』(藤原京、リイド文庫)
