もっとも奈良公園にしろ、北摂地域にしろ、大阪の市街地まで到達するには、分厚い住宅密集地を通り抜けなければならない。航空写真を見ればその道中の難儀さは一目瞭然である。野生動物にとって市街地そのものがストレスだと思うのだが、どうしてそのようなストレスのかたまりを突破して、いきなり都市の心臓部に現われたのだろうか。
その前に奈良公園のシカが、これまで公園から外に出なかったこと自体が不思議なことである。天然記念物の指定地域も奈良公園一円という何ともあいまいな範囲であったことから、過去には農作物を食害された農家との間で訴訟問題となったこともあったのだ。しかし、最近までシカたちはこのあいまいな範囲から大きくはみ出ることはなかった。
それはひとえに鹿せんべいの効果であろう。その恵まれた食生活のおかげで奈良公園一円から出ることはなかったが、そのせいで生息数の増加を招き、ついにはみ出る個体が現れたのである。恐らく日本中の森林内で密かに起きている事態を、奈良公園は目視化したのである。
大阪市への経路を考える
それではどのような移動経路をたどったのか。想像すると面白い。
もっとも常識的な移動手段として考えられるのが河川の利用であろう。すでに2年前東京では江東区と府中市でそれぞれシカが発見され、関東山地に生息していた個体が荒川や多摩川に沿って下ってきたとされている。
このような大きな河川には広い河川敷と長大な堤防・土手があってシカの餌となる植生に困らない。道路と違って車もないし、通行人も少ないからストレスなく、腹を満たしながら移動することができる。シカやイノシシなどにとって願ってもない環境である。
奈良市内を流れる佐保川の下流は大和川で、大阪市の南部堺市との境界を流れて大阪湾に注いでいる。佐保川は奈良市街を抜けるとほぼ田園地帯を下り、シカは餌の草に困らず、ストレスなく移動できるだろう。
大和川(初瀬川)との合流点近くになると川幅も広がり、河川敷や土手には草も多くなってさらに環境がよくなる。シカは水を苦にせず泳ぎも得意なので、両岸を行き来しながら移動できる。
ここで河川に限らずどんな経路を取ろうが、奈良県と大阪府の境にそびえる生駒山地を横断しなければならない。もちろん大半が森林でこれまでシカは生息していなかった。それならシカはなぜかこの森林に留まって安住の地としなかったのだろう。何を好んで下流の大阪市を目指したのだろうか。
大和川は、奈良県王寺町から大阪府柏原市にかけて渓谷となって、生駒山地を横断する。その間およそ5キロメートル。両岸が迫るV字谷であるから、シカも山中へは入りにくく、並行する奈良街道や関西本線を併用すれば、あっという間に大阪平野に出られる。柏原から下流の大和川はほぼ真っ直ぐで、河川敷も広く植生豊かでそのまま大阪湾に流れ出る。
次に道路を利用した移動である。3月に入ってから奈良市帝塚山、生駒市菜畑、東大阪市石切と布市町で複数のシカが目撃されているから、この直線上のルートを利用した可能性が高い。道路上を移動する目撃例が少ないところを見ると、夜間の通行量の少ない時間に早足で移動したのだろうか。
夜間とはいえ大都市である。少なからずの車、それも結構スピードを出した車を避けながら、無数の交差点を越えてくることなど可能なのであろうか。ふつうの山地に生息するシカなら考えにくいが、奈良公園のような市街にいたシカなら、都市環境に慣れているので、比較的ストレスなく市街地を移動することができるのだろう。
ここでも疑問は、なぜやすやすと生駒山地を横断したのかである。このルート上で利用できそうな道路は、自動車専用道の第二阪奈道路と暗峠越えの国道308号線がある。前者は柵で囲われており、この区間はほとんどがトンネルで夜間の通行量もあるので、まず可能性は少ない。対して国道308号は、カーブの多い山道なのでシカにとっては利用しやすいが、ほとんど全区間が森林の中で、シカがこれを抜けて大阪へ行く理由が見当たらない。このまま生駒山地に定住した方がよほど快適だと思うのだ。
ここで意外と盲点なのが近鉄奈良線である。生駒駅から石切駅までのほとんどが直線のトンネル(3.5キロメートル)である。鉄道も高架であったり、柵で仕切られているが、踏切とか駅とか開口部も多い。そして何よりシカはレールの鉄分が大好物なのだ。
森林内を走る高山線や紀勢線などではレールの鉄分を舐めに来たシカを撥ねる事故が多い。鉄道は夜間にはほとんど走っていないので、シカは余裕で3.5キロメートルを駆け抜けることができる。
