2026年4月13日(月)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2026年4月13日

 信長はこれを利用し、風雨に視界を奪われた桶狭間山麓まで一気に駒を進めた。ここで西から雨があがって晴れ間が広がる。右側面に突如現れた信長勢に驚愕する義元本隊に対し、信長は突撃を号令。咄嗟の対応が遅れた義元本隊に攻めかかった。

桶狭間古戦場公園(筆者撮影)

 午後2時頃、信長は義元本陣の位置を正確に把握。「義元の旗本本陣はここだ!」と各所で戦う織田兵に集中攻撃の檄を飛ばした。西方に展開する今川各部隊はぬかるみと化した低湿地帯の地形に足を取られて身動きもできず、ついに義元は討ち死にし、戦いは信長の勝利に帰する。

誰に褒美を与えたのか

 以上が桶狭間の戦いのあらましなのだが、残念ながら信頼できる史料には豊臣兄弟が戦闘に参加したという記録が全く無い。おそらく二人とも清須の留守居に残されたクチだったのだろう。ドラマでも凱旋した信長が論功行賞を行っていたが、先に史料での論功行賞の方から紹介しておこう。

 まず簗田政綱(一級史料では単に「出羽守」)だが、決戦の際、信長に迂回攻撃を強く勧めた功で沓掛城3000貫文を与えられたという。これについて少し触れておこう。3000貫文は6000石。それとは別に彼は以前から九之坪を領地としていた。これは結構重要で、九之坪は佐々兄弟の本拠・比良の隣で、一帯の豪族が信長の側で必死に働いたことが分かる。

 これらの土地は庄内川に面している。そのすぐ東の安食庄は庄内川の水運で商業港湾の津島と結ばれ、伊勢湾流通経済の内陸側のターミナルのひとつとして繁栄していた土地だったから、佐々にも簗田にもその余沢が及んでいたことになる。佐々隼人正が先走って討ち死にしたのも、簗田政綱が信長に積極攻勢を主張したのも、伊勢湾流通経済が今川家のコントロール下に置かれれば自分たちの既得権益が奪われるという危機感によるものだったし、熱田―南知多の利権を守ろうとして戦死した千秋季忠に優るとも劣らない覚悟で望んだのだろう。


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