外務省の目標設定とメディアの評価
1980年代フランスに留学していた筆者は、アルバイトで国際会議のプレスのお手伝いをしたことがある。いうまでもなく、日本の報道関係者の仕事は、日本の首相や閣僚などの発言をとることが第一だ。その記者会見の場にいるのはほとんどが日本人である。速報性の意味は大きいが、内容的に現地でインタビューしなくてもよいことばかりだった。しかも日本から来た記者は日本がどう見られているのか、ということについては特別なネタ探しはしない。
このことが最も顕著なのは、外務省の関係筋と称して直後に流される外交イベントの評価だ。筆者はかつて在仏日本大使館広報文化責任者をしていたことがある。国の利益を背負って日本のために対外広報しているという気持ちは当事者には強い。他方で、外交イベントを司る立場としては首相や閣僚の外遊の目標設定をきちんとする必要がある。
失敗は許されない。であれば過剰な目標を立てることはできない。それはメディアなどの批判とわが身に返ってくる冒険主義にもなりかねないからだ。
当然「妥当で無難な」目標設定となる。そしてそれがある程度達成されている時、あるいは極端な場合には主観的には「失敗」と思われる場合でも、多くの場合「一定の成果」として報告される。閣僚の無誤謬性であり、保身でもある。それを受けてメディアは「成功」と報道する。
G7では、様々な動画で高市首相が米国議会スタッフの一員としてのキャリアがあったにもかかわらず、英語のコミュニケーション能力が不十分であること、外国人の対応に不慣れであることが露呈されていた。それは日本の首相の資質として問題であるが、同時に外務省の対応についてもその対応の硬直性は問題であると感じる。
首相との事前の打ち合わせがどうであろうと、国際舞台の面前で首相が手持無沙汰である様子を流されることは裏方として大いに反省すべき点であろう。これでは世界へのリーダーシップと橋渡し役としては心もとない。
アジアから日本だけが代表という時代ではない。主要20カ国・地域(G20)代表も加わった席上では、インドのモディ首相が高市首相の傍らで自然な雰囲気で米欧首脳と談笑する様子が伝えられた。「アジアを代表」して出席した高市首相は、そのお株を奪われた格好だった。
最近で言えば、高市首相の米国訪問は、トランプの爆弾発言を招くこともなく、日米親近感を確認した。高市首相の国際情勢に関する米国への新たなどんな提言があったのか否かはよくわからなかった。顔つなぎということであればよし、とできるのだろうか。
首脳の外遊の評価は目標値の設定によって様々だ。その外交の達成度は当然異なる。
外交目標の議論をメディアと国民が自ら興していくだけの気概と見識が求められる。その上で、真の意味での政府の評価と批判が可能となるのではないか。
