──大学院、文学部助手を経て国立民族学博物館へ異動となり、そして『梅棹忠夫全集』 (全22巻:1990年)の編集に関わるわけですね。
小長谷氏:そうですね。ただ、わたしは梅棹先生の弟子というわけではなく、研究上の関わりは少ないのです。著作集の刊行が企画されていたとき、梅棹先生はほとんど失明されていたので、「これをよろしく頼む」と託されました。
わたしが担当したのは第2巻〈モンゴル研究〉ですが、モンゴルだけでもゆうに十冊分くらいのデータがあるのです。残り九冊分のデータは手つかずのまま“玉手箱”にしてしまい、わたしは自分の研究を続けていったわけです。
梅棹先生が亡くなられた後、〈ウメサオタダオ展〉(2011〜2012年:国立民族学博物館、日本科学未来館で開催)の実行委員長となって、わたしは“玉手箱”を開けました。その当時自分のしたいことはひと通りし終えたタイミングだったので、蓋を開けたという感じですね。
展示のためには全体を見渡さないといけません。それで全集も読み込んで気になったところに線を引き、お手伝いの人に打ち込んでもらって、自分だけの圧縮版梅棹忠夫本のようなものをつくって作業しました。それで初めて梅棹忠夫の全体像を把握できたのです。梅棹忠夫という存在は大きすぎるので、誰ひとりその「全体」の後継はできません。現代の人間は、その「部分」を後継するだけです。私の場合はモンゴル研究の資産を受け継いでいくということだと思います。
──今年、小長谷先生はモンゴル研究の回想録を上梓されました。タイトルは、『人類学者は草原に育つ』ですね──。
小長谷氏:このタイトルを見たら「それは違う、(人類学者は)熱帯に育つんですよ」「いや森林に育つんですよ」と、いろいろな意見が出てくるだろうと想定して「草原……」とつけたんです。人類学のフィールドはもちろん草原だけではないわけですから、いろんなフィールドで育った人の本が出てくるといいなぁと思っています。
でも、たとえばモンゴルの農業について研究しようというときは、百年後でもわたしの書いたものを読まなければならない。それくらいの仕事をしているつもりです。そう、博物館にずっと置いておいてもらいたいような知識です。博物館は人類の遺産ですから。わたしはモンゴル研究の世界遺産を目指しています。百年後に賞賛されればいいやと思っていたんだけれど、モンゴルの方たちも、わたしの仕事はひじょうに価値があると言ってくださいます。