自力で番付を上げる
「私ね、子どもの頃、人とかかわるのが辛くてね。とにかく家族としか話せないし、笑えないし、心を許せなかった」
神奈川県立横浜第一高等女学校(現神奈川県立横浜平沼高校)時代は通学のためのひと駅の電車にも心臓がドキドキして乗れず、4キロの道のりを歩いて通ったという。
「ま、そのおかげで体が丈夫になって、スポーツをするようになりました。人としゃべらなくてすみますからね。創作舞踊のクラブにも入りました。先生がピアノ弾いて、お題があって、自分が感じたことを表現する。もしかしたらあれが表現をする面白さを感じた第一歩だったかもね。本当は人とコミュニケーションとりたかったんだ、自分を表現したかったんだって、ずいぶん大人になってからそう気づきました」
そんな高校3年の頃、草笛はSKDを受けて合格している。県下有数の女学校に通い、人見知りで電車にも乗れなかった少女とSKDとは思いきり隔たりがある。
「当時、SKDにあこがれていた友だちが自分は無理だから代わりに受けてくれって。どんなところ? と聞いたら女が男の役をする? 恐ろしいなあ……びっくりしたけど、頼まれたから受けたら受かっちゃった」
あこがれて必死に挑む人たちを尻目に、60倍の競争率をそういう動機で突破したというのはやはり特別の光を放っていたのだろう。しかし、それは本人も周囲も困惑させることになった。突然、目の前に思いもかけなかった道が現われた。進むのか止めるのか。
「みんな反対でした。なんで水商売ぎりぎりの世界に娘をやるのかとか。私って、そうなると反発したくなっちゃうところがあるみたいで、体操の先生の思いやりで1カ月高女を休学して松竹音楽舞踊学校に通いました。ここは自分の力で番付を上げるお相撲さんのような世界だなと思って、自分で決めました。高女の卒業まで3カ月だったんですが、SKDが卒業まで待てないというから、ああそうですかって高女のほうを辞めました」
入ったからには番付を上げる。卒業までに一番になってやる。そう決意した草笛は、本当に松竹音楽舞踊学校を首席で卒業している。SKDでは10年にひとりの逸材といわれ、記録映画にアップで映れば生意気だと陰口もたたかれる。
「だって私が頼んだわけじゃないから、そんなこと気にも留めませんでした。SKD辞める時もケロッとしてましたねえ」
自分はギラギラしていなくても、存在が光を放っていたのだろう。いろいろな映画会社からの引き抜きがあったそうだが、筋を通してここまで芸を身につけさせてくれた松竹へ。