パラアスリート~越えてきた壁の数だけ強くなれた

2015年5月1日

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 そして2008年、高校3年生で北京・パラリンピックに出場し、100m自由形、100m平泳ぎで5位、100mバタフライで6位入賞を果たした。

 「あれほどの大観衆が入るのは国際大会の中でもパラリンピックだけです。だから緊張しましたし、舞い上がってしまって(笑)、あっという間に北京大会は終わりました」

 「メダルに届かなかったので悔しい結果だったのですが、持てる力は全て出し切ったという感覚があり、もっと速くなれるという自信もありましたので、『次がある』とすぐに前向きな気持ちになっていました」

 これが高校時代最大にして最高の思い出となった。

 同大会では河合が100mバタフライで3位に入り、木村が6位。「まだまだ遠い存在で背中も見えていなかった」と当時を振り返るが、徐々に怪物に追いついてきたことは確かだ。

 筑波大学付属視覚特別支援学校・高等部を卒業後、日本大学文理学部に進学し、水泳サークル「水泳普及研究会」に入会した。

 そこには泳ぎたい、身体を動かしたいと楽しさを求める者や、大会出場を目指し記録に挑む者などさまざまな目標を持った学生が集まっていた。もちろん木村は記録への挑戦である。

 それまで一人で練習することが多かった木村にとって、多様な価値観に触れることや、仲間と泳ぐ喜びを知る機会となる等、生活と練習環境の激変は大いなる飛躍のステップとなった。

 「健常者といっしょに練習する環境になって、とても新鮮に感じたのですが、周りからは北京パラに出場した人という見方をされたり、『日本代表、凄いね』とか言われたのですが、みんな僕よりも速い人ばかりなのです。だから、まずは練習についていかなくちゃという思いになりましたし、『日本代表』と言われるからにはもっと速くならないといけないとも感じました」

挫折、自暴自棄、自然体……
雑念がなくなりメダル獲得

 木村にとって、河合とは世界を象徴する大きな存在だった。しかし、その河合に対する気持ちが変わり始めたキッカケがあった。2010年のアジアパラ競技大会である。

 木村は50m自由形で河合を制し金メダルを獲得した。この勝利が河合を「遠い」存在から「抜かなければならない」存在へと変えた。

 「当時の僕は20歳で練習時間が十分に取れる環境でした。それに比べ河合さんは社会人ですから、十分に練習ができているとは思えません。そのうえ年齢的にもかなり離れているので、そろそろ抜かなければいけないと思ったのです。それが、『この人に勝たない限り、世界では勝てない』という強い気持ちに変わっていきました」

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