2024年11月21日(木)

ひととき特集

2016年9月1日

 合原 それは日本独特?

 芳澤 中国から伝わった禅の発展形ですが、たしかにかなり日本的になっています。

 重森 庭園文化は、中国から朝鮮に伝わり、日本に入っているので、根本は同じですが、国民性や気候風土で大きく変わりました。中国の庭園も山水風景ですが、非常に絵画的です。木が一本もないということ自体、まずほとんどあり得ないです。

右から、合原一幸さん、重森千靑さん、芳澤勝弘さん。まったく違う分野の学識者が、龍安寺石庭に向き合い、意見を交換、作庭者や成立年代、構図の謎に迫った

石庭の作者と意図は?

 芳澤 実は今日、「きぬかけの路(みち)」を渡った側の多福院(たふくいん)*3龍安寺の総門から歩きました。石庭ができた時期は諸説ありますが、おそらく室町時代でしょう。当時の龍安寺は広大な寺域があり、その中の書院の前に小さくあるのが石庭なんです。総門から歩いてくると、この石庭が箱庭だということを実感しますね。

 合原 広い寺域と箱庭。その考え方は、複雑系*4と重なります。部分と全体の循環として物事を捉える思考です。龍安寺の中に石庭がある、そして石庭を含む各部分から龍安寺全体ができていて、それを踏まえて石庭を見れば、より見え方が深まる。石庭自体も15個の石で全体ができているけれど、この全体を構成する部分として、個々の石の意味も考えるようになりますね。

 芳澤 ぜひ、総門から歩いて訪ねてほしいです。それにしても、回遊式庭園の大きさに比べてはるかに狭い龍安寺の庭で何を表現しようとしたのか。よく言われる「虎の子渡しの庭」*5というのは江戸時代の後付けで、最初はかなり抽象的なものを形にしたのではないかと思います。

 重森 禅寺の庭は、そこに住まうお坊さんがつくることが多かったんです。だから、お坊さんたちの心情が庭園に映し出されているのではないでしょうか。龍安寺もその可能性は高いです。その後、庭師や作庭家が手を入れたのだと思います。

 芳澤 うん、そんな気がしますね。

 ─退蔵院副住職の松山大耕さんは、どう思われますか。

 松山 禅寺の庭の一番の特徴は、私たちが実際に住んでいるということです。庭の白砂に筋を引くのも日常ですが、一番難しいのは直線です。龍安寺の石庭のように真っ直ぐの長いラインは、かなり集中して引かないと曲がります。禅宗の坐禅は、「静中の工夫」で静けさの中での修行ですが、一方、動きながらの修行である「動中の工夫」も重視します。ああいう筋を引くことによって、自分自身の集中力も磨かれると思いますね。

 重森 そもそも寺院の方丈前庭というのは、儀式のための空間でした。江戸時代に入って庭にし始めますが、手前は白砂のみで奥に木や石を配している。ところが龍安寺は、室町時代にあんな庭をつくっている。ただ、そんなに大きな石じゃないので、ベテランの職人なら、必要な時には、意外と楽々移動できそうな……。怒られちゃうかな(笑)。

*3 妙心寺の塔頭寺院で、文明14年(1482)創建

*4 多様で多数の要素で構成され、各要素が相互作用しながら全体の振る舞いを生み出すとともに、全体の振る舞いが各要素に影響するようなシステム

*5 虎が3匹の子を産むと、1匹が彪(ひょう)で、ほかの子を食べようとするため、川を渡る際に親虎が苦慮するという中国の故事に基づく説


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