さて投資銀行業務、とりわけM&Aの世界は常に交渉に満ちている。買収の際の価格をどう決めるのか、売買契約書に盛り込まれる保証・表明の範囲をどこまでにするかなどは、M&A業務における交渉上の最大のポイントである。
勝率にこだわる上司
私がM&A業務の新人だった頃、私の上司は契約書オタクであった。オタクと言っても契約書の文言を眺めてうっとりしている訳ではない。契約書の勝負ポイントで相手を徹底的に打ち負かすことに生きがいを感じ、それらのポイントで何勝何敗で勝ったかを常に記録を取るような極めて好戦的なオタクであった。その意味で、彼は先の図の左上象限に位置する対決型のインベストメントバンカーであった。彼のようなアドバイザーが付けば、自らが売り手であれ買い手であれ、相手方を完膚無きまでに叩きのめしてくれるので頼もしいと思われるかもしれない。
だが相手に向き合う前、我々は、クライアントとの間で業務委託契約を結ばねばならない。それも契約書である以上、締結の前にはクライアントとの間でそれなりの丁々発止の交渉が行われる。そこでも勝率にこだわる上司は、ついついクライアントを叩きのめしてしまう。だから案件の開始にあたっては、常に、クライアントとの間に微妙な空気が流れていたものだ。私もそんな中よくやっていたと思う。
私が新人だった頃のM&Aは、社史を飾るような10年に1度の大イベントであった。だから、とにかく売買を成立させること自体が目的であるような風潮があったのも事実である。だがM&Aの神髄は、特に買収側において、被買収企業をいかに自分の中に融和させてシナジーを生ませるか、というところにある。実際、買収後の融和やシナジー実現のための取組みは、PMI(Post Merger Integration)といわれ、買収そのものの成否を決める極めて大事な作業なのである。
不動産の売買と異なり、企業のM&Aには従業員や企業文化といったソフトなアセットがついてくる。それらは「ナマモノ」であり、扱いを間違えると腐敗して買収者の体調に甚大な影響を与える。買収の交渉において自分たちが徹底的にやり込められるのを目の当たりにすると、「協力なんかしてやるもんか」という気持ちになるし、優秀なタレントから社を出ていくことになる。それでは買収をした意味がない。その意味で、M&Aにおける交渉というのは、対決型よりも協業型であるべきなのだ。目指すものは買収者と被買収者のWin-Win。インベストメントバンカーというものは、「賢明なる結果」を友好裏にそして効率的に導くことをアドバイスせねばならないのである。
ところが、インベストメントバンカーの仕事はM&Aにおける売買の成立で区切りがつくので、PMIについては知見もないし関心もない。日本においてM&Aが盛んになったのは過去15年ほどであるが、その15年は、買収者にとって手探りでPMIの経験値を積み上げてきた歴史でもある。結果、PMIにおける知見のギャップは、クライアントとインベストメントバンカーで大きく開いてしまった。私自身もPMIの専門家ではない。だが、私が所属するファームでは、PMIの専門家を多数雇い、クライアントニーズに応えられるように体制を整えている。だから、昨今のM&Aのアドバイザー選定にあたっては、売買というスポットイベントに加えて、PMIまで一気通貫でアドバイスできるかがポイントになっているのである。
それに加えて、普段付き合いのあるインベストンメントバンカーの交渉術が、ドナルド・トランプ型かそれともヒラリー・クリントン型かのどちらに当たるかを比べてみるのも面白いだろう。先の図の真ん中に「妥協」という象限がある。インベストメントバンカーの数だけ交渉術は存在するだろうが、なんだかんだとこの象限に回帰するのかもしれない。バランス感覚があると評価されるかもしれないし、エッジがない分面白味がないと切り捨てられるかもしれない。ただ今の時流、契約書の勝率にこだわるだけの人材が支持されないのは間違いなさそうだ。
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