2024年4月17日(水)

Wedge REPORT

2017年2月14日

映像の価値が相対化された映画館

 アニメが観客に訴求する要因は複数ある。それはテレビアニメの劇場版と単発アニメでも理由は異なる。

 テレビアニメの劇場版の場合、それは学校に通う子供たちの年間スケジュールと密接に関係しており、同時に子供たちを引率する親の存在も興行成績に寄与している。つまり、子供向けとは言えファミリー映画だ。そしてそれらのほとんどは、マンガやゲームの原作が人気となり、テレビアニメ化を経て劇場版が公開されるという展開を経ている。

 一方単発アニメは、監督の作家性が訴求するケースが多い。スタジオジブリの監督たちをはじめ、最近では細田守や長井龍雪などがそうだ。もちろん、新海誠や片渕須直もこちらに括られる。これらはテレビアニメの劇場版と異なり、オタク文化の浸透と拡大により、高齢者層を除いた全世代にリーチする。アニメであればなんでもいいわけではないが、グッズ販売なども含めて実写よりも注目度が高くなる傾向がある。

 さらにそこで押さえなければならないのは、アニメは映像表現として、映画館でより価値が見出されつつあることだ。事実、『君の名は。』や『この世界の片隅に』の映像は、極めて高い強度を持つ。さらに、その映像の美しさもさることながら、音楽とともに観客を包み込んで固有の体験に導く。この両作品では、それぞれRADWIMPS、コトリンゴと、音楽が作品の重要な構成要素となっている。一般客の声に耳を傾ければ、そこから聞こえてくるのは、物語展開や作品テーマ以上に、映像の美しさや音楽への感嘆である。

 素晴らしい映像と音楽を大きなスクリーンで体験する──こうした映画館の価値が近年より前景化しているのは、他の映像(動画)メディアが拡大・浸透してきたからだ。あらためて説明するまでもないが、テレビは地上デジタル放送とともに高画質化・大画面化し、そこでユーザーはDVDやブルーレイだけでなく、NetflixやAmazonビデオなどの配信サービスを楽しむようになった。YouTubeやニコニコ動画がそれ以前から人気なのは、周知のとおりだ。

 振り返れば、映画館は常に他の映像メディアに翻弄されてきた歴史を持つ。テレビの普及によって60年代前半に急激に観客を失ったのをはじめ、80年代以降はビデオの浸透やBSテレビなど、他メディアとの互恵関係を築きながらも、相対的に存在感を落とし続けていった。そして最低迷期が90年代中期に訪れた。

 ただ、そうしたなかでも映画館にはひとつだけ明確なアドバンテージがあった。それは解像度(画質)だ。すなわち、フィルムとテレビの映像には、その解像度において比較にならないほどの差があった。こうした状況はレーザーディスクやDVDなどが普及しても、テレビ受像機に大きな変化が見られなかった00年代中期までは変わらなかった。しかし、いまやNetflixの4K映像を自宅のテレビで観られる時代だ。映画館の優位性は、映像の解像度という点では完全に失われた。

 そうなると、当然のことながら「映画館に足を運び、お金を払って映画を観る」という行為そのものの価値がより問われてくる。前編で触れた、“体験”価値が相対的に浮揚する要因のひとつはこれだ。映画館が3Dや4Dの設備を完備したのも、「他者と共在して静かに映像を観る場」を「みんなで大きな声をあげて応援できる場」として読み変えたのも、映画館における映像そのもの(コンテンツ)の価値が相対化されたからだ。

 こうした情況下において、『君の名は。』や『この世界の片隅に』、『シン・ゴジラ』、あるいはハリウッドのアクション大作などが強さを発揮しているのは、それらの映像と音楽が映画館という空間(メディア)でその魅力を最大化するからだ。観賞者の身体と感覚を、大画面の映像と大きな音楽で包み込んで非日常的な体験をすることこそが、必要とされる傾向にある。

 裏を返せば、これは映画館とテレビで体験的に差異が生じないタイプの映像作品は不利になることを意味している。具体的には、映像的な工夫がなく、会話を中心に構成されたような日本の実写映画は、その最たるものだ(テレビドラマの映画化がヒットしなくなりつつあるのは、そのひとつの顕れかもしれない)。アニメはこうしたなかで相対的に価値が高まっている。


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