2024年11月22日(金)

Wedge REPORT

2017年2月14日

「崩壊する日常」を処理する天災的感性

 では、『君の名は。』、『シン・ゴジラ』、『この世界の片隅に』の3作には、社会投影性はいかに生じていたのか、あるいは生じやすかったのか。

 それは、やはり東日本大震災・3.11と、その反動としての期待だ。簡明に述べてしまえば「天災的想像力」だ。そうした反応を引き出したのは、この3作に共通する表現が「崩壊する日常」だったことと関係している。3作はけっして東日本大震災を直接描いたわけではないが、観賞者は3.11の記憶をリソースに映画をディコードする傾向が見られた。

 もちろん、作品で描かれる「崩壊する日常」の原因はそれぞれ異なる。『君の名は。』は天変地異、『シン・ゴジラ』は怪獣、『この世界の片隅に』は実際にあった過去の戦争だ。

 このなかでもっとも3.11と似た原因を描いているのは、『君の名は。』だ。とは言え、その天変地異は震災や津波ではなく、人類の歴史でも稀にしか生じないたぐいのものだ。つまり、震災ではないが、それと同等の被害を生じさせる天変地異を描いている。

 『シン・ゴジラ』は、現実世界で生じない原因がゆえに、天変地異にも他国の脅威にも抽象化されて受け止められがちだ。ただし、かなり細かく描かれるゴジラ登場以降の官邸の対応は、3.11直後の日本政府のそれを想像させ、放射能の脅威も福島の原発のことを連想させる。実際、あの官邸の描写は、東日本大震災時に官房長官だった枝野幸男などへの取材が反映されたと見られる。

 対して『この世界の片隅に』は、太平洋戦争を描いた内容だ。そこで反映されている社会は、過去の日本であって現代ではない。しかし、ひとりの女性の戦下における日常描写を徹底することで、戦争の要因は終盤まで感じられない。さらに時間経過を示す年月日には「昭和」が消されて、単に「20年8月15日」と言ったように表記される。そこからは、原作者と制作側による時代性を薄める意図が捉えられる。

 ここで注視しなければならないのは、国防の思考実験として捉えられる『シン・ゴジラ』や太平洋戦争を描いた『この世界の片隅に』も、「崩壊する日常」という共通点によって天災のリソースで読み取られがちだということだ。

 『シン・ゴジラ』はまだ天災的要素が強いが、『この世界の片隅に』の場合は主人公が叫ぶクライマックスの一点を除き、戦争が天災かのように感受される向きが見られる。それは、戦争を引き起こした政治的背景がほとんど描かれていないことに起因する。

 同時に、この作品が小規模公開から口コミで拡大して大ヒットとなったもっとも大きな理由も、おそらくこの点にある。従来の戦争映画では概ね描かれていた悲惨さや政治性が、前面に出されていなかったからだ。結果、戦争によって「崩壊する日常」は、(その時代を体験した一部の高齢者を除けば)天災の記憶によって読解されがちだった。

 戦争を天災として読解(感受)することは、当然のことながら大いなる倫理的な問題を孕んでいる。戦争の被害者の面を強調することで、加害者としての立場の等閑視(あるいは免罪)に繋がりかねないからだ。ただし、ここではその倫理性の是非は問わない。重要なのは、(『君の名は。』は当然だとしても)為政者(大きな世界)を描いた『シン・ゴジラ』にしろ、庶民(小さな世界)を描いた『この世界の片隅に』にしろ、それらが受け手に天災的な感性で処理されがちだったことだ。


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