2024年11月25日(月)

Wedge REPORT

2017年2月14日

 加えてこの3作において「崩壊する日常」のまさにその瞬間は、とても美しく描写される。いくつにも分かれて墜落する彗星、暗闇のなかで炎に囲まれるゴジラ、そして戦闘機から落とされる爆弾──各監督の作家性とアニメ(的な)表現の豊かさは、破滅のシーンにおいて最大値に達する。

 さらにこの3作は、この非常事態の後も描いた。そこには、観賞者の強い期待が向けられる。具体的には、「崩壊する日常」の克服によるカタルシスや、そこからの回復による安心が得られるかどうかだ。それを満たしたからこそ3作はヒットした。

原因や責任主体を問いにくい「天災的感性」

 この「天災的想像力」が、もちろん偶有的であるのは間違いない。天災による大きな被害に見舞われない国や地域もあるからだ。

 たとえばそれは、中国や韓国でも公開されて大ヒットしている『君の名は。』の反応を見ればわかる。たとえば韓国では、みつはの行動によって対応を変えた役人(大人たち)に、セウォル号事故の際に乗員たちに欠如していた側面を見出す。これらの反応は、当然のことながら韓国特有のものだ。韓国社会を生きる観客の期待が、天災ではなく人災の部分に投映されている。あるいはテロが頻発するヨーロッパにおいては、それは「あした愛するひとの命が突然奪われるかもしれない」といった想像力によって処理されるかもしれない。

 もちろん、こうした社会投映性に異論を持つ者もいるだろう。当然個々で読解は異なるからだ。『シン・ゴジラ』や『この世界の片隅に』を戦争に対しての想像力として捉えたひともいるように。ただし重要なのは、多くのひとはたとえそれを「戦争」と認識していても、良し悪しはともかくそれを「天災的」に感受したことだ。

 日本における「天災的想像力」は、いまに始まったことではない。多くの戦争にかんする作品(とくに原爆)において、政治的メッセージが強くないがゆえに、それが「天災」のように捉えられることは過去にも見られた。

 このレトリックの特徴は、原因や責任主体を問いにくい点にある。倫理的な問題もはらむその姿勢は、天災が頻発する国土にわれわれが住むことだけでなく、かの戦争に対し日本政府が明確な態度を避け続けてきたことに基因する。

 つまり、責任を強く認めることもなく、あるいは明確に否定するわけでもなく、70年以上前の出来事をめぐるさまざまなイデオロギーがいまだに乱立するなかにおいて、身近な「崩壊する日常」である天災の想像力によって処理しようとする──2016年を代表する日本映画の特徴を「ポスト3.11の時代」としたのは、この点からなる。


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