2024年4月19日(金)

Wedge REPORT

2017年2月14日

「社会反映論」と「社会投映論」

 さて、最後のポイントに入る。映画を取り巻く現代日本社会についてだ。

 社会と映画の関係を論じるとき、たいていの場合は、その作品内容を社会の反映、あるいは創作者が考える社会の反映だと捉えるケースが目立つ(※4)。これらは「社会反映論」と呼ばれる。具体的には、「映画は社会を映す鏡である」といったタイプの言説がそうだ。

 しかしこの社会反映論は作品によって程度が異なる。これは例を挙げて考えれば簡単だ。たとえば一昨年、ディズニーの実写映画『シンデレラ』が公開された。実写と言っても、CGをふんだんに使った映像だった。ただ、ストーリーはよく知られる昔話と大筋で同じだった。あるいは、3年前に公開された高畑勲監督のアニメ『かぐや姫の物語』について考えてみてもいいだろう。その物語は、多くのひとが教科書で読んだ『竹取物語』と大差ない。

 これらの作品の物語は、現代社会の反映だとは到底言えない。それらは、誰もがよく知る単なる昔話だからだ。『アナと雪の女王』のように、昔話を翻案した様子もほとんどない。社会反映性があるとするならば、現代社会を生きる創作者によって生み出されたこと、そして、現代だからこそ可能な映像技術(たとえば『シンデレラ』のCG)がふんだんに盛り込まれている点だろう。

 これらからわかるように、映画内容(テクスト)の「社会反映性」とは、作品によってかなりその程度が異なる。ざっくり言えば、社会を強く反映する作品もあれば、そうでない作品もあるということでしかない。

 しかしその一方で、受け手が作品を解釈することを「映画は社会を映す鏡である」と捉えてしまうことも往々にして生じている。たとえば『シンデレラ』や『かぐや姫の物語』に、現代女性の生きづらさを読み取る観賞者がいるように。しかし、それは映画内容が「社会を映す鏡」なのではなく、観賞者が「映画に社会を映している」──つまり「社会投映論」だ。

 この「社会投映論」とは、概して読み手の偶有的な読解であることが多い。前述した例では、昔話に21世紀の現代を投映して論じていたように。それは時代性だけなく、読み手の立場(性、民族、国籍、思想)などによっても異なる。「偶有的」というのはこの点を意味する。

 しかしながら、それは偶有的だからこそそこに読み手独自の期待や願望が表れる。ほとんどのひとは、理論的解釈などせず、個人体験として映画を観るからだ。加えて、この期待や願望とは、ひとびと(観賞者)の現実世界に対する潜在的(無意識的)な渇望の投映だとも捉えられる。

 ここまでをまとめると、「社会反映論」は映画内容(テクスト)が社会を反映することなのに対し、「社会投映論」とは受け手が映画に期待や願望を投映することを指す。つまり、主語が異なっている。そして、ここで重要となってくるのは、前者よりも後者である。

※4……長谷正人「占領下の時代劇としての『羅生門』──『映像の社会学』の可能性をめぐって」長谷正人・中村秀之編『映画の政治学』青弓社(2003年)所収。


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