他にも、街を再興するときに、震災の傷をどこまで残すかどうかという問題もありますし、親族を失った人たちの中でも、心の立ち直りのスピードも違いますよね。
一番分断を感じたのは、東京の人たちは「被災地」に寄付をしますが「そもそも被災地ってどこですか?」ということです。被災地は法律で定められていますから、少し離れただけでも「被災地」ではなくなってしまうんです。
どういうことかと言うと、例えば自宅は無事で被災地域ではないけれど、職場は被災地にあり流されてしまったというケースがあります。この人は仕事を失ったという意味では被災しているわけですけど、自宅は被災していないので被災者ではないんです。そうなると、一体東京の人たちは誰に寄付をしているのかということになります。
――避難出来た人と、出来なかった人の分断もあるわけですか?
渋井:そうですね。避難出来た人、出来なかった人の間にはまず経済的な格差があります。その上で、避難した人としなかった人にわかれます。それは親族内でも感情的なもつれがあったりしました。
――渋井さんは、1995年の阪神淡路大震災時にも、現地を取材していますが、復興という観点から見て、東日本大震災と阪神淡路ではどのような違いがありますか?
渋井:復興に関する一番の違いは交通事情ですね。神戸は、大阪から近いですから。それに比べると、東北の経済の中心である仙台から石巻市へは約1時間、気仙沼市に至っては3時間近くかかります。そうなると現場に向かう移動時間や、復興作業で使う各種の機材などを運ぶ輸送時間だけでもかなりの時間が掛かってしまう。三陸道もまだ繋がっていませんし。
また、阪神淡路と東日本大震災の両者の被災範囲を比べると相当違います。さらに、東北は元々過疎地で高齢化していたこともあり、復興に費やせる住人のエネルギーに違いがありますね。
――復興が道半ばという現在、被災地の方々が抱えている問題とはどんなことでしょうか?
渋井:住まいや津波にどう対応していくのかという問題は依然としてあると思います。例えば住まいにしても、海を見て津波のことを思い出したくないので、海から離れて内陸部に住む人もいますし、慣れ親しんだ場所が好きだからと住み続ける人、仕事上やむなく住み続ける人と理由は様々です。
政府は、今後津波が起きた場合、1960年のチリ津波レベルであれば防潮堤で防ぎ、東日本大震災レベルのために、住居などの建設を制限する災害危険地域を指定し、対応しようという考え方です。ただ、宮城県多賀城市はこの考え方を採用せず、津波が押し寄せた際には逃げましょうという対策をしています。