9月になった。2軍での代打の成功率は神がかっていた。それでも、1軍に呼ばれることはなく、2軍の遠征にすら帯同しなくなっていた。佐伯は横浜市内のホテルの一室に呼ばれ、来季の契約をしないことを告げられる。
「5分。それ以上の話は必要なかった」
この時点では、公表されていない戦力外通告。それでも、佐伯は朝6時にグラウンドにやってくる。チャンスがない中で、来季の契約がない中で、なぜ佐伯は6時にやってくるのか。
「それをやめる理由がない。横浜での野球が終わっただけ。野球はまだ続いていく。チャンスがないっていう理由だけで、自分のやってきたことをやめるのは、あまりにもカッコ悪い」
横浜におけるホームゲーム最終打席を2軍の試合で迎えた。この日、2軍の本拠地である横須賀スタジアムには、急きょ外野席が開放されるほどにファンが押し寄せた。鳴りやまぬ佐伯コールの中、横浜での野球を終えた。
「いろんな自分を見ることができた。何度も諦めそうになった。それでも、屈しなかった。やり抜くことができた。そんな、最高の1年だった」
1998年の日本一のメンバーであり、18年間球団を支えてきた男は、戦力外通告を受けて球団を去った。後輩、チームスタッフ、ファンに、「最高の年だった」と言い残して。翌11月、中日ドラゴンズへの入団が決まった。
1年後の11月。佐伯はナゴヤドームのベンチで泣いていた。クライマックスシリーズを制し、優勝を決めたその試合の中で。98年の優勝以来、強いチームに飢えていた男が久しぶりに味わう感覚に、感情が振れたのだろう。移籍した年に優勝。野球の神様が用意した舞台は、あまりにも粋である。同月、佐伯は中日から戦力外通告を受けた。それでも、引退する道を選ばなかった。
「自分のやりたいことを貫くという気持ちと、断ち切ることができないという気持ちと、両方あった。やることを全てやって、終わりたかった」
12年、野球浪人生活に入った。ボールなどの道具を自ら買いそろえ、球場を借り、キャッチボール相手を雇い、練習に励んだ。孤独な一年間である。それでも、佐伯はやり抜いた。11月、千葉ロッテマリーンズから入団テストのオファーが届いた。
「テストの合否は正直関係なかった。野球場で、ユニフォームを着て野球をやらせてもらえる。それだけで、なんて贅沢(ぜいたく)なんだろうって、心から思えた」
テストは不合格。そして、その後開催された合同トライアウトに参加。どこの球団からも連絡がないまま、年が明けた。それでも、佐伯は練習をやめなかった。