猪木さん、坂口さん? (店に)来ないよ。1度も…。(2005年に)俺が歌手になり、CDデビューをしてその頃、後楽園ホールで行われた昭和プロレスの会場で坂口さんに会った。一応は付き人をしていたから、俺なりに気を使って、「今度、クラウンレコードからCDを出しまして…」と渡したんだ。
あの人が怒ったような表情で「そんなのいらねぇよ、いらねぇよ」と大きな声を出して、受け取らないんだよ。ハハハ…。あの人は選手として3流だったけど、人間としても3流だと思ったね。俺が逆の立場だったら、「おい、がんばれよ」と言って、CDを受け取ることはしたと思う。あの人が、道場で練習をしている姿を俺は見たことがない。つまんない試合をしていたね。あれでは、アメリカでは通用しない。
アメリカでは、お客さんやプロモーターに認められると、どんどんと上がっていく。ギャラもね。だけど、ダメになると、すぐに切られる。力のある選手しか、生き残れない。スターだから、生き残るんじゃない。生き残るから、スターになるんだよ。アメリカではトップになるどころか、試合すらさせてもらえなかった選手が、日本ではトップになれる。
猪木さんは、練習をしていたよ。試合はうまい。ああ、うまいな、すごいなと俺は何度も思った。(相手の選手の持ち味を)よく引き出すしね。だけど、アメリカで、ファンやプロモーターを驚かせるような技をもっていなかった。
猪木さんと坂口さんも祝いに来てくれるかな。ワハハ…
今はわからないけど、あの頃(1970~80年代)は新日本には問題があった。(社長の)猪木さんがお金をつぎ込んでいたサイドビジネスのアントン・ハイセルの経営が、上手くいっていないようだった。多くの借金もあったようだよ。この影響を選手たちが受けたんだ。
ギャラが安い、と不満を持つ選手が多かった。あの頃の新日には、いい選手がいっぱいいた。藤波(辰巳)選手も、(後輩の)前田(日明)も佐山(聡)も…。みんな、いい試合をしていた。テレビ朝日での放送も、ものすごく人気があった。それで、あんなギャラではね…。
当時(77年~)、俺はアメリカで転戦をしていた。(79年からは)リングネームを「キラー・カーン」として、ヒールでトップになった。アンドレ(ザ・ジャイアント)や、ハリー・レイス、ダスティ・ローデスなどと試合をよくしていた。
その頃のギャラは高かった。それがねぇ…。取材を受ける場では言いたくないけど。どうなったんだろうな…。今なお、説明もないから。俺がいろいろと調べると、わかってくることがあるんだ。
あの頃、猪木さんや坂口さん、新間さんたちの経営に不満を持ち、小鉄さんや藤波選手、長州(力)たちが、「この会社はおかしい!」と立ち上がった。俺も、そのひとりだった。異議あり!なんてもんじゃなかった。それは早いうちに潰れされてしまった。
その後、前田たちは新日を辞めて、(84年に)UWFを旗揚げした。(84年には)長州(力)や(アニマル)浜口さんや、小林邦昭、谷津(嘉章)たちも新日を辞めて、ジャパンプロレスを結成した。アメリカにいた俺も新日を辞めて、合流した。