手書きでもよかったはず
筆者は大使館の肩を持ちすぎたかもしれないが、どうしても理解できないのは、奥村書記官がなぜ、最後まで清書にこだかわったのかだ。藤山氏は「クリーンコピーを作らずにペンや鉛筆で加筆訂正した体裁の悪い文書をそのまま提出する方法もあった」(藤山前掲書、92ページ)といっているが、まさにそのとおりだろう。タイプを打った奥村書記官自身、1946年の外務省調査に対して、清書の中に「少なからずミスタイプがあったが、それを手書きで訂正した。そんなことをかまう時間はなかった」(1994年の外交記録公開)といっている。
とすると、ハル長官に手交した文書そのものに手書きが加えられていたということだろう。それなら、なぜ最初から手書きの文書にしなかったのか。奥村氏は手交指定2時間前の7日午前11時ごろ、いわば下書きのようなタイプができあがったといっているのだから(同)、その下書きを利用すれば、全くの手書きになることは避けられただろう。藤山氏は、ハル長官に手渡す文書としては、お粗末だったからと弁明しているが、汚い手書きでも、〝だまし討ち〟の汚名を着るよりはるかにマシだったろう。
遅延問題を考えるうえでの、きわめてバランスのとれた見解を紹介したい。当時、来栖
特派大使に同行してワシントンの日本大使館に出張していた結城司郎次参事官の極東軍事裁判での証言(1947=昭和22年8月)だ。
結城氏は、「大使館は交渉妥結の希望に支配され覚書で即時対米開戦となることを予想しなかった」、「東京も攻撃開始直前僅々30分間に重大な結果を伴う通告を終えるきわどい芸当をする以上、訓令はもう少し親切であるきだった」として、双方の過失を指摘している。〝両成敗〟ともいえる公平、客観的な指摘といっていいだろう。
出先への責任押しつけの体質
ここに登場する人たちをはじめ、関係者のほとんどが鬼籍に入ってしまった今、問題の解明は期待薄といわざるを得ないが、学び取るべき教訓が何かだ。
世界が時間的に近くなり、インターネットの普及で通信手段も格段に進歩したいま、何かの場合、東京から事情をよく知る担当者がかけつければいいことであり、出先と齟齬が生じる恐れははるかに少ないだろ。しかし、末端に責任をおしつけるという構図があったとしたら、今もそれほど変わっていないように見えるが、どうだろう。
昨年来問題になっている森友問題。財務省による公文書書き換えで自ら命を絶った近畿財務局職員の遺書には、上司からの指示でしたことなのに……という悲痛な思いにあふれていたという。
いままさにメディアを賑わしている官民ファンド「産業革新投資機構」の高額報酬問題でも、経産相は「不手際」などと説明、事務方の責任との見方を示している。真相は不明としても、同じ構図にもみえる。
リメンバー「リメンバー・パールハーバーー。「珠湾を忘れるな」の合い言葉を忘れずに77回目の12月8日を迎えるのも一興だろう。
日本大使館のタイプライターに話を戻す。覚書手交遅延の教訓を忘れないようにという心配りから人目につくところに置いていると聞いたことがある。あらためて大使館に問い合わせたところ、いまは展示されておらず、別途保管されているとのこと。アンダーウッド社の戦後のモデルというから、覚書作成に使用された機種ではなかった。
80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。
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