「外」に飛び出してみてわかった「内」のありがたさ
筆者は出自を韓国に持つ。いまのグローバル時代、「国籍」と「民族」と「イデオロギー」と「個性」はどれもイコールでないのは当たり前だが、選挙目的の排他的分断政治という世界潮流のなか、国籍という概念が戸籍制度同様、デリケート且つ時代遅れなレガシーに感じられる時も、少なくない。
ともかく筆者は、第二次世界大戦以来日本に暮らす韓国人家庭に生まれ、中学を卒業するまで京都で育った。後に自分のわがままでアメリカに10年住んだりしたのだが、私は、ありのままの自分をそのまま受け入れ、大切にすることを教えられてきた。すなわち、「祖国」である韓国を慕い、「母国」である日本を愛することだ。それ以外のことをちょっとでもすると、自分自身を否定することになってしまう。
私は、これまで迷える人生を歩んできた。アメリカの大学を卒業後、東京にきてゴールドマン・サックス証券でトレーダー業務に従事し、かとおもえばアメリカに舞い戻ってロースクールに3年通い、ニューヨークで弁護士をやる。5年間従事するうち人生に疑問を感じ、次には好奇心で企業買収ファンドに勤めたりもした。それにも飽き足らずベンチャー企業を複数経営した末、現在、社会課題解決をするインパクト投資ファンド「ミッション・キャピタル」を運営させていただいている。
支離滅裂なキャリアを歩んだ私だが、一貫して心に残るのが「海外留学したからこその親への感謝」だ。カリフォルニア州サンディエゴの高校に入学した初日から、実家では当たり前のように出てきた好物の料理や家事の世話は、もう誰もしてくれない。また、料理をしても外食をしても、(とくに貧乏留学の予算では)味もバラエティーもお粗末なものだ。だからこそ悟った親の愛の深さに私はすっかり参ってしまい、渡米時には少々反抗期だった私も、学校図書館のパソコンからEメールで母と文通を交したりしたものである。
海外から日本を見つめる
今回、ご縁あり『海外を見て、本当の日本を知ろう』という本連載に至った。私は別に賢くもないしエリートでもなんでもないので、日本の時事問題について「正しい答え」など持ち合わせていない。ただ、私がアメリカにいって初めて京都の実家の愛情を悟ったと同じように、海外を俯瞰(ふかん)することで日本のあり様が見えることもあるのだと思う。海外視点で日本をみつめ、多岐にわたる課題・話題について「正しい問いかけ」への一助となれば光栄である。
初回では、日本人の話す英語につき読者の皆様と考えたい。というのも、つい先日シンガポールのチャンギ国際空港に降り立ち、都心へ向かうタクシーの中である経験をしたからだ。