2024年4月23日(火)

ジェンダー観をアップデートする

2019年9月18日

浪人、地方出身の女子はその時点でダメ

――雇用機会均等法が作られる前にいろいろな運動もあったと思います。

『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ 著、斎藤真理子 翻訳、筑摩書房)

斎藤:1980年に、私自身はまだ大学2年生でしたが、4年生の女性の先輩が、女子学生の募集・採用差別に抗議して数寄屋橋公園でハンストを行いました。顔が出ちゃうと就職活動に差し障りがあるから、お面をかぶったりして。ハンスト後に、髪をばっさり切ってパーマをかけてすっきりした顔をしていた先輩と一緒にお茶を飲みました。ちょうど光州事件が起こり、私が韓国語の勉強を始めた年でしたのでよく覚えていますよ。

 ご存知だと思うけれど、当時はとにかく女子には求人がない。それに加えて実家から通う女子じゃないとダメ。地方出身の女子や浪人している女子はその時点で応募資格がないなんてことが普通でした。

――ひどい差別。

斎藤:その時代の女性誌で、大手企業20社が女子にどんな条件を設けているのか調べる企画がありました。女子は短大が主流。四大はそれだけでダメ。四大卒で朝日新聞やNHKに入るのは、ひとにぎりのすごく優秀な人だったんですよね。

 私の母が、娘たちの将来について具体的なビジョンを持っていなかったようだと言いましたが、女性が働くことについて社会全体にビジョンがなかったのでしょうね。

――今も明確にあるかと言えば厳しいです。

斎藤:そうですね。ただ、働くことについての女性差別は昔のほうが激しかったけれど、当時はバブル前夜で景気が良かった。隙間の仕事がたくさんあったので、フリーランスやアルバイトでも仕事を覚えてお金を稼ぐことができ、それを不安に感じる時代ではなかったんですよね。もちろん、東京だったからこそできたことですが。

――80年代にはフリーターが最前線の働き方とうたわれたこともあったんですよね。

斎藤:その通りです。私自身がそんな空気の中にあり、就職活動をせずに社会に出ちゃったんです。

 学生時代に韓国語の勉強をしたり、アジアの女性たちとつながる運動(例えば、日本人男性がアジア各国への買春ツアーに出かけているという問題があり、それに対する反対運動がありました)などの近くにいたので、狭き門をくぐって企業社会に潜り込むより、フリーターで働きながら問題意識を持って暮らしていけないかと思っていたんですね。さまざまなアルバイトで世の中のいろんな現場を見たいとも思っていたし。

 はたから見たらばかみたいなんですが、本人は「企業社会に身売りするもんか」ぐらいの勢いだったし、それで実際どうにかこうにか食べていけたんですよね。当時、80年代後半は就職状況も売り手市場で、新卒確保のために女子学生も盛大な接待を受けていましたよ。

 ところがそのあとバブルが弾けて、就職氷河期です。私はそのころ30代に突入し、編集という専門職にシフトしてぎりぎりやってこられたのですが、運が良かっただけです。ただ、私ぐらいの「運」があった人はかなりいたという実感があるんです。そこが、今の時代とは違いますよね。

――1986年に男女雇用機会均等法が施行となりました。ただ、当時活動していた人たちが求めていたモノではなかったという話を聞きます。

斎藤:当初は罰則規定がなかったから、批判の声も高かったですよね。その後二度の改正で変わったけど。ただ、日本の場合、法律を下からのニーズで勝ち取ったというケースは少ないですよね。なし崩し的というか、本当に欲しいかたちの法にはなかなかなりません。

 施行後にどうなっていったかといえば、みんなリクルートスーツを着てエントリーシートを書くようになりました。雇用の機会均等ということで男女問わず誰でも応募できるようにもなりましたけど、リクルートスーツのように同調圧力をかけて選別して、大企業に山のように応募がきて、山のように落とされる。そして今や、非正規雇用で働く人の多くが女性です。子どもを持ちたくても持てない。まともな女性の働き方が確立されないうちに、新自由主義に完全に足元をさらわれてしまったという印象です。

――最近は就活セクハラもよくニュースで取り上げられます。

斎藤:昔からウワサはいっぱいありました。非常に根が深い話だと思います。そういうことに、大人がきちんと向き合ってこなかった結果ですよね。今が膿の出しどきだと思っています。


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