2022年12月4日(日)

名門校、未来への学び

2019年10月13日

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鈴木隆祐 (すずき・りゅうすけ)

ジャーナリスト

1966年長野県生まれ。法政大学文学部在学中より出版社で雑誌編集を始め、その後フリーに。著書に『名門高校人脈』(光文社新書)、『名門高校 青春グルメ』(辰巳出版)ほか。

東海中高に行ってみたものの…

 

 しかし、このうまい話には盲点があった。当時の岡崎市立中の男子はみな坊主頭。ところが、愛教大附属中は髪を伸ばしてよかった。いざ東海に入ってみると、中学までは全員坊主。これでは周りに、愛教大附属中に行けなかったと思われる。「すごい癪だった」と長坂さんは振り返る。しかし、電車で1時間弱かかる名古屋の東海まで通ううち、長坂さんは都会の感覚を自然と吸収していた。

「レッド・ツェッペリンもT-レックスも当時(72〜73年)の名古屋公演に行ってるんです。それも東海に通っていたおかげ。やはり岡崎だと、そうした情報がダイレクトに入ってこない。岡高に入学し、1学期の終わりにはバンドも組みました。演奏したのはフリーとかブリティッシュ系、(ディープ)パープルとかもですね。

 岡高ではしばらく色目でも見られました。その頃のこと、ツッパリもいたんで、ボコボコにもされた。その後からそいつらとは、すごい仲よくなりましたけどね。東海では野球部でしたから、岡高でも入部は考えましたが、髪の毛も伸ばしたかったし、音楽への興味も高まっていたので、応援部に籍だけ置く、いわゆる幽霊部員でした(笑)。

 東海ではバスの中で知り合った金城の子と、せいぜい交換日記をするくらいだったんですが、岡高では彼女もできました。下級生でマドンナ的な娘(コ)がいて、彼女は担任から『なんであんなヤツとつき合うんだ』って言われたそうです(笑)」

  まさに“アオハルかよ”。音楽同様、名古屋で仕込んできた苗が、花と咲いたとでも言おうか。岡高ではまた、人生の中でも「恩人」と呼べる人らとも出会った。

岡崎高校時代の長坂さん

 「高3の担任の岩城浩先生と体育の吉野功先生でした。ストレートに学校に来たわけじゃない、周りの見方も特殊な僕に、2人ともみんなと同じようにごく普通に接してくれた。父が議員もしているので、腫れ物に触るような扱いをする先生もいた中、吉野先生には何回も叩かれたけど、愛情を持ってというのがわかった。何年か前、第1回岡高フォーラム(岡高同窓会主催)という講演に講師として呼ばれ、2人とも駆けつけてくれ、照れくさくてずっと伝えられずにいた感謝のメッセージを壇上から送りました。

 後にこの世界に招き入れてくれた、やはり大恩人の秋元康さんにも、『お前から要領と親の七光りを取ったら、なんにもないよ』とものすごく的確な言われ方もされましたが、当時グレようにも、どこかで長坂の家が頭にあり、見えない線を超えちゃったら、親の顔に泥を塗る—という意識だけは働いてましたね。

 でも、ギリギリまでは行ってみたいという好奇心も頭をもたげてくる。そこで、まだ東海にいた高1の時、親友と二人でアメリカに短期留学させてもらいました。L.A.は街のスケールも色も空気も想像を絶する世界、エラい所にきてしまったなと。人生の分岐点でした。それも親が『行ってこい』と行ってくれたからで、つくづく感謝してますね」

 円も固定で360円の時代、それだけサポートもしてもらえる環境だったからこそ、高卒後も南カリフォルニア大学国際関係学部に進学という道筋も立ったのだ。秋元氏とも留学中に知り合い、やがて氏がミュージカル制作のため、ニューヨークに会社を設立した際に長坂さんにも声がかかった。

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