『世界秩序は「競争的多極化」へ――日本が採るべき進路とは(前編)』
「大いなる挫折」を味わう米国
冷戦終結から2番目の10年間である2000年代を振り返ると、前述のように湾岸戦争の余波としての「米国同時多発テロ」が01年9月11日に起き、21世紀はじめの世界情勢に大きな影響を及ぼした。同年の1月に発足していたブッシュ(子)政権は「テロとの戦い」を掲げ、アフガン戦争、イラク戦争へと突き進んでいった。しかし、いずれも所期の目的を達成できず、「大いなる挫折」の戦争となり、約20年経った今も尾を引いている。
01年には9・11のほかに二つ重要な出来事があった。一つは中国のWTO加盟である。これこそが、今日の経済大国・中国の基礎を築き、「世界の工場」として凄(すさ)まじい勢いで中国が経済超大国に躍り出る大きな契機となった。そしてもう一つの重要な出来事は、ロシアにプーチン大統領が登場したことだ。冷戦後のNATOの「東方拡大」や西側のミサイル防衛網強化などに対して、ロシア人には米国や西側に「裏切られた」という感情がさらに強くなり、今もその怨念がプーチン体制を支えている。
そして08年という年は、3番目の10年間である10年代の問題が、予めすべて出尽くした年である。まずリーマンショックに端を発した金融危機で世界経済が大きく動揺し、「パックス・アメリカーナ」もいよいよ閉幕かといった議論も出た。中国はこの危機に対して4兆元(約57兆円)もの景気対策を打って世界経済の急場を凌ぐことに大きく貢献し、経済超大国の座を不動のものにした。もっとも、この時の莫大な不動産投資や不健全な融資などが今日の世界経済の秩序を脅かすリスクになっており、今後を見ないと結論的評価はできないが、リーマンショックこそは中国が確実に米国の「背中を捉えた出来事」として後世の歴史家は評価するかもしれない。
また、08年には北京五輪が開催されたが、その成功を機に自信をつけた中国は、外交政策を大きく転換していく。鄧小平以来の、力をつけるまでは国際社会で対立を惹起(じゃっき)しないという、あの「韜光養晦(とうこうようかい)」路線への決別は、13年以後の習近平政権の登場によって始まったのではなく、すでに前任の胡錦濤政権の時に始まっていたのである。
10年の尖閣諸島沖での漁船衝突事件では、中国は自らの領土主張を日本に強く押し付けて、対日制裁としてレアアースの輸出を禁止するという外交手段を用いた。今日、世界情勢の潮流になっている「ジオ・エコノミクス」(経済手段を政治目的で用いること)をまさに先取りしていたといえる。東アジアの秩序と日米同盟への挑戦、米中関係の今日の緊張はこの頃から萌芽し始めた。