Wedge REPORT

2020年2月3日

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 気が付けば今季でプロ10年目を迎えることになっていた。日本ハム・斎藤佑樹投手のことだ。2010年10月のドラフトで4球団から1位指名され、くじ引きの末に交渉権を勝ち取った日本ハムへ入団。あれからもうそんな年数が経っていたのかと、あらためて多くの人が思っているはずだ。

 そりゃあ、そうだろう。プロ入りしてから、ここまで輝きを放ちかけた時期はあったが、それもせいぜい最初の1年余り。以降は記憶に残るような活躍を遂げられず、重要な戦力になっていない。皆が辟易しているから、斎藤に関してはもう時間の経過を気にすることがなくなっている。

(krispetkong/gettyimages)

 沖縄・名護で2月1日からスタートしたチームの一軍キャンプメンバーに入った。初日からブルペン入りし、各メディアで話題に取り上げられると「とにかく結果です」と言葉に力を込めた。

 しかし、これも今やキャンプの風物詩だ。本人には申し訳ないが、もう誰も信用していない。何年も同じようなセリフを口にしながらシーズンに入れば結局、期待を裏切る。まるでイソップ物語の「狼少年」を彷彿とさせる大言壮語を繰り返していれば、それは次第に失笑を買うことへとつながっていく。

 だが不思議なことに斎藤はこれだけのバッシングを浴び、バカにされて嘲笑されながらも柳に風だ。並の人間ならば、気が滅入って自らプロ野球人生にピリオドを打つ選択をしそうなものである。これまで取材をしている中、NPB球団に所属する選手から斎藤について「絶対にマネできない」「自分ならば、とっくに辞めている」などと評する言葉を幾度となく聞いた。そのほとんどは悪口ではなく周囲の反応をまったく気にしないという、ある意味において斎藤が強靭なメンタリティーの持ち主であることに関心を抱くものだった。

 そもそも彼はいつから、こんなキャラクターになったのだろうか。ルーキーイヤーの2011年にローテーション5番手に加わって6勝6敗、防御率2・69をマークしたのが自己ベスト。2年目は開幕戦で埼玉西武ライオンズを相手に9回1失点と初完投勝利を飾り、4月には初完封と勢いを増していったが、同年の6月中旬以降から突如としてスランプにハマり込むと、ここから段々と「ハンカチ王子」の一挙一動は何かとディスられる対象になっていった。夏場頃、右肩に違和感を覚えていたが、そのまま我慢して投球練習を繰り返していたことで結果的に患部は悪化。同年のシーズンオフに検査の結果、右肩の関節唇損傷という重大な症状となっていることが判明した

 思えば、この大きなケガが運命を暗転させた。実を言えば選手生命にかかわるような負傷だったが、当然ながら周囲はそう簡単に「引退」を許すはずがなかった。当時を知る日本ハム関係者が、こう述懐する。

 「あのケガがなかったら斎藤のプロ野球人生は、少なくとも今よりいい方向へ傾いていただろう。それぐらいに致命傷だった。早実3年の時に夏の甲子園決勝で駒大苫小牧を相手にマー君(現ニューヨーク・ヤンキースの田中将大投手)と伝説の再試合の末、投げ勝った国民的スターを球団だってポイ捨てできるわけがない。加えて右肩の関節唇損傷についてはチーム側の発見が遅れたことも悪化の一因につながったことを考えれば公傷と言わざるを得なかった。本人が現役続行を望むなら、最後まで納得がいくまで〝看取って〟いくのが球団としての責務。それが球団としての総意と考えてもらっていい」

 こうした話を総合すると、斎藤はだいぶ過保護なプロの環境下で育ってきたようだ。国民的スターとして三顧の礼で迎え入れられたものの、入団から僅か2年目で右肩に致命傷を負う憂き目にあった。そんな不幸な経緯を球団が気遣う余り、いつしか〝治外法権〟のような扱いとなってロクにカミナリすら落とされないまま現在に至った。どんなに酷いピッチングをマウンドで繰り返そうとも栗山英樹監督から怒りをぶつけられないのも、それは球団幹部の意向だからであり、そのすべてがトップダウン方式で降りてくる日本ハムならば当然の流れだ。

 前出の関係者は、さらにこうも続ける。

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