世界の記述

2020年4月18日

»著者プロフィール
閉じる

工藤律子 (くどう・りつこ)

ジャーナリスト

1963年大阪府生まれ。東京外国語大学大学院地域研究科修士課程修了。『マラス―暴力に支配される少年たち』(集英社)で第14回開高健ノンフィクション賞受賞。他、『マフィア国家―メキシコ麻薬戦争を生き抜く人々』(岩波書店)など著書多数。

 例年ならば筆者は今頃、スペインの首都マドリード郊外に家族と暮らす友人でジャーナリストのセルヒオ(60)の家に滞在し、取材をしているところだ。しかし、今年はそれができなかったのみならず、セルヒオが新型コロナウイルスに感染し、入院してしまった。何とか退院にこぎつけた今、体力回復を待ちつつ、感染者数が世界で2番目に多いスペインの中でも最も過酷な状況にあるマドリードでの闘病体験を語ってくれた――。
(sudok1 / gettyimages)

 3月13日(金)のことだ。悪夢にうなされ眼覚めると、熱があり、体が異常に重くだるかった。町の医療センターに電話をすると、解熱剤を飲んで様子を見るよう言われた。3日後、家の中での自己隔離を始め、私は自分の寝室にこもり、妻は別の部屋で寝るようにした。トイレも2つのうちの1つを自分専用に。食卓でもテレビを観るリビングのソファでも、私は娘と妻から一番遠い所に座るようにした。4日目には、新型コロナ専門窓口に電話をかけた。すると、正しい対処をしていると言われたので、そのまま自宅待機を続けたんだ。

 ところがその後、やはり同じような症状に苦しんでいた友人(元看護師)が、肺炎を疑って病院へ行ったところ、新型コロナだと判明し、「あなたも病院へ行ったほうがいい」と、助言をくれた。翌朝には39度近い熱が出たので、妻の運転で隣町にある公立病院へ向かった。

 20日(金)午前11時半頃、病院に着くと、待合室は人でごった返していた。病院のドアを入ってから検査をしてもらうまでに、4時間近く待たされた。待合室の椅子に座っていると寒気がしたので、妻がどこからかシーツを手に入れてきて、体を包んでくれた。

 午後3時過ぎ、ようやくPCR検査と血液中ガス濃度検査を受けられた。そして4時には胸部のレントゲンを撮られ、身体中が痛かったので鎮痛剤を貰った。その1時間後の午後5時に医師が、「肺炎を起こしていますから、入院の準備をします」と知らせてくれた。でも、患者が多過ぎて場所を確保するのに手間取ったらしく、実際に入院できた時にはもう夜8時半を回っていた。

 最初は車椅子に座らされ、(まだ検査結果が出ていなかったため)抗生物質と抗ウイルス薬(ヒドロキシクロロキンとカレトラ)の両方を与えられて、酸素吸入器も付けられた。数時間後、翌21日(土)になって、救急病棟にある病室に入った。ベットが25台くらいある所だ。そこに病院へ来るよう勧めてくれた友人がいたので、手を振って挨拶したよ。

 実は、彼女と僕、そしてもう1人残念ながら新型コロナで亡くなってしまった友人は、3人とも3月8日の国際女性デーのデモ(マドリードで10万人規模。マスクをしている人は少数だった)に参加したんだ。もしかするとその時に感染したのかもしれないが、はっきりしたことは不明だ。

 救急病棟に移って24時間後に、今度は普通の入院病棟に引っ越した。二人部屋だ。酸素吸入と点滴が続けられた。熱はだいぶ下がっていた。そして翌22日(日)には再び胸部レントゲンを撮られた。すると、体調は良くなっているように思えたのに、肺炎は悪化していた。その夜、妻に自分のスマートフォンで電話をかけたが繋がらず、そうこうするうちに、人工呼吸器につながれる羽目になった。妻が折り返し電話をしてきた頃には、もう話せない状態だった。

 23日(月)朝、担当医が、妻に電話で「危ない状況です」と伝えた。それからの24時間は、妻と息子、娘はとても辛い時を過ごしただろう。24日午後1時半、再び来た医師からの電話で、妻は私の容態が少し良くなったと知る。その間、私は集中治療室で胸腔ドレナージに繋がれていた。胸腔内に溜まった余分な空気や体液などを体外へ出すためだ。

 25日(火)には、ドレナージのチューブが外され、妻には「熱が下がりました。麻酔薬も減らしていきます」と、担当医から連絡があったそうだ。肺がしっかり働くようにするために、点滴で摂る栄養も増やしていった。それからの4日間、回復が進み、30日(月)には人口呼吸器が外され、酸素吸入だけになった。翌日には集中治療室も出られて、元の二人部屋に戻った。それからはゆっくりとだが、良くなっていったんだ。

関連記事

新着記事

»もっと見る