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2021年3月3日

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片田敏孝 (かただ・としたか)

東京大学大学院情報学環特任教授・日本災害情報学会会長

1960年岐阜県生まれ。豊橋技術科学大学大学院博士課程修了後、群馬大学大学院教授などを経て現職。東京都江東5区が組織した水害対策協議会のアドバイザーも務める。著書に『人が死なない防災』、『人に寄り添う防災』(共に集英社新書)など多数。
 

〝釜石の奇跡〟を呼んだ釜石市立鵜住居(うのすまい)小学校と釜石東中学校は現在、高台に移設されている (MASATAKA NAMAZU)

 2018年の秋、政府中央防災会議の「平成30年7月豪雨による水害・土砂災害からの避難に関するワーキンググループ」が開催され、私は委員として参加した。この会議の報告書の原案に目を通すと、課題と改善の方向が見事にまとめられ、解決への処方箋が示されていた。その一文一文は間違いなく正しいのだが、全文を読み終えて、ある違和感を覚えた。それは「国民の皆様に分かりやすく周知する」「ご理解をいただく」など、国民へのお願い調の文章が並んでいたことだ。これは行政と国民との関係でいえば、災害対策の主体は行政、客体は住民という構造であることを意味していた。

 このような構造のもと、行政だけが対策を積み増すという方向性は、住民の主体的な防災への姿勢を削ぎ落とすことにつながる。ともすれば、今後いつ起こるとも限らない激甚災害を前に、危ないところに堤防を造るのは「行政」、危ないところをハザードマップで教えるのも「行政」、危ない時に逃げろと言うのも「行政」、避難したら世話をするのも「行政」との意識になりかねない。こうした〝災害過保護〟状態にあるのが現代に生きる日本人の姿で、このままでは「命を守るのも行政」という誤った考えを生みかねない。

 なぜ日本人はこれほどまでに行政依存が強いのか。わが国の防災は、1959年の伊勢湾台風を契機として、61年に制定された災害対策基本法(災対法)に基づいている。これには、防災は全て「行政」が主体となるよう記されている。

(出所)「令和2年版防災白書」附属資料を基にウェッジ作成
(注)阪神・淡路大震災の死者については、関連死919人を含む 写真を拡大

 災対法制定の背景には注目すべき事情がある。この頃の日本は、自然災害によって年に数千人規模の人が亡くなっていたのだ。人口1億人のうち災害死者数が数千人とは異常事態であり、明らかに仕組みそのものに欠陥があったと言える。欠陥とは、「あるべきところにあるべきものがなかった」ということだ。その当時、最低限必要な堤防も防波堤も砂防ダムも全く不十分だった。だからこそ、防災の主体を行政にしたのだ。

 災対法が一定の成果を収めてきたのは事実である。加えて、日本が世界でも比類なき〝災害大国〟でありながら、先進国でもあり続けているのは、紛れもなく国土や人々を守ってくれるインフラなどのハードレベルが高い〝防災大国〟だからである。したがって、インフラ整備による国土強靭化は全く否定すべきことではなく、厳しい財政状況の中でも真に必要な投資はしていくべきだ。ただ、それによって国民の心の中に、災害は防ぎきることができるという「災害制御可能感」が生まれてしまっては、国土強靭化の効果を最大限享受することはできない。

 それゆえ、第一歩として大切なのは、「自分たちも備える対象がある」という事実認識を持つこと、「誰かがやってくれることには限界がある」という現実を受け入れることである。これはある種の諦観論を前提にした防災思想だ。諦観論とは単に諦めることではなく、物事の本質を見極めたうえで固執せずに受け入れ、行うべきことを淡々と重ねることである。これこそわが国の防災に必要な考え方だ。そうすることで、行政と住民は主客未分となり、抗い切れない自然災害という共通の〝壁〟に正面から向き合い、共に乗り越えようという機運が醸成される。

 先述したワーキンググループの報告書の最後には、国民へのメッセージとしてこう記されている。

「行政は万能ではありません。皆さんの命を行政に委ねないでください」
「避難するかしないか、最後は『あなた』の判断です。皆さんの命は皆さん自身で守ってください」

 これは防災が行政によるサービスからサポートへと大転換したことを意味しており、私たちが当事者意識を強くすることに寄与するものである。

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