国際地球観測年への迅速な対応
地球上で発生する物理的現象を詳しく知るには、できるだけ広範囲で同時に観測したい。そこで理学分野初の国際協力体制が組織される。まず、1882~83年(明治15年~16年)を国際極年として11か国が北極地域11か所、南極地域4か所で気象と地磁気を観測。その50年後の1932年~33年(昭和7年~8年)には、第2回国際極年として34か国が北極圏8か所、南極圏5か所で気象、地磁気、輻射、極光、電離層、太陽現象、電波伝播などを共同観測し、それぞれに日本も国内観測で参加した。
第3回国際極年は、50年後の1983年(昭和58年)に予定されていたが、第二次大戦前後の科学技術の急速な進歩に鑑み、25年前倒しにして1957~58年(昭和32~33年)とすることを万国学術研究会議の後身の国際学術連合会議(ICSU)が1952年(昭和27年)1月に決定した。名称は国際地球観測年(IGY)となり、観測点も極地だけでなく熱帯と中緯度帯も含み、①高層気象②地磁気③極光④夜光⑤宇宙線⑥太陽現象⑦電離層⑧緯度・経度の8項目が重要テーマとして選ばれた。当初は、東経140度線上の赤道付近での重点的観測を計画したが、南洋群島への立ち入りを米国が認めない。1954年(昭和29年)のビキニ水爆実験で、米国が立ち入りを拒む理由も判明したが、ここを追われた日本は真剣に南極観測への参加を検討する。翌年7月のパリでの南極会議で、日本は非公式に参加意図を伝える。さらに政府関係への根回しを行い、9月のブリュッセルでの会議で正式に意思表明したが、これは各国の観測点の配置を最終的に調整・決定する場であった。この2か月間、国内調整も難航したが海外からも逆風があり、オーストラリアとニュージーランドは日本参加に強硬に反対し、それに同調せざるをえない英国も反対する。しかし、米国とソ連の後押しで参加が認められ、アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、チリ、フランス、ニュージーランド、ノルウェー、南アフリカ、英国、米国、ソ連に続く12番目の参加国となった。
出席した永田武・東京大学教授は、「会場を見渡すと他の参加国はすべて白人国、かつ第二次大戦の戦勝国だ。そしてアジアからの参加は日本だけ。日本が担う責任の重さをひしひしと感じた」と記している(永田武「南極観測事始め」光風社)。だが、最後の参加国に観測点の選択自由はなく、与えられたのはノルウェーのプリンセス・マーサ海岸基地(西経2度)からオーストラリアのモーソン基地(東経62度)までの約1000マイルに及ぶ空白地帯である。
最終補給基地のオーストラリアと南アフリカのいずれからも遠く、地形や氷状から接近困難なので敬遠されてきた地帯だ。これの中間、東経35度付近のプリンス・ハラルド海岸に観測基地を設けるよう勧告を受けたのだ。基地選定での不満は残ったが、日本は受け入れた。まだ日本の国連加入も認められない戦後10年目の秋、日本学術会議は日本政府を代行し、日本科学陣を国際社会へ送り出すことに成功したのである(現地調査の結果、日本の昭和基地は、東経39度35分のプリンスオラフ海岸のオングル島に設けられた)。
だが案じた通り、輸送には最悪の地域だった。南極観測船「宗谷」の接岸は最初の年こそ円滑だったが、第2回以降は度々難渋し、第2次隊は米国の「バートンアイランド号」の、第4次隊はソ連の「オビ号」の同行を南極入りの最初から要請するほどの難所であった。「宗谷」から「ふじ」に切り替わる3年間の観測中止期間にも「あの地域は困る。観測点を変更したい」という意見具申が続出している。
南極観測へ向け政府の尻を叩く
欧州での折衝に対応し、国内でも日本学術会議は果敢に行動した。同会議は元々、1955年(昭和30年)に赤道付近で観測を始めるための特別予算措置を前年から政府に要望していたが、同年に入ると国際地球観測年や南極観測の話題をメディアが伝え始めた。中でも、白瀬探検隊への支援以来、南極に強い関心を寄せる朝日新聞社は、社として船をチャーターし探検隊を送る企画を7月に学術会議へ持ち込んだ。国の機関が新聞社の後押しで事業を興すのも奇異だが、慎重派の学者や政治家への説得に朝日新聞は強力な援軍となった。
学術会議全体だけでなくIGY研究連絡委員会でさえも、乏しい科研費の現状や観測意義への疑問、冒険への危惧や輸送の困難性から南極観測参加には慎重だった。文部省の科研費全体が11億円なのに、結果的には南極派遣に国費だけでも8億5000万円が支出され(「宗谷」改修だけで5億円)、これでも不足なので国民から募金したのである。国家予算全体が約1兆円弱だから、その0.1%を使う事業が飛び込めば政府も当惑する。輸送を依存する海上保安庁も、韓国が国際法に反して広大な水域の漁業管轄権を一方的に主張して設けた「李承晩ライン」での漁船保護に巡視船4隻を常時配置するため、乗員の配置に四苦八苦していた。
だが、前年から学術会議の会長を務める茅誠司氏は、かなり強引な会議運営で参加を承認させた。ブリュッセルでの日本の南極観測参加表明直後の9月29日、同会議は政府に観測実施の具体策樹立を要望し、計画素案も提示する。予備観測を翌1956年(昭和31年)の12月から、本観測を翌々年12月から実施したいというのだから、緊急事態的な予算要求である。また、「越冬観測は本観測で実施し、設営は朝日新聞の協力を得る」とあるのも異例である。
鳩山一郎内閣(第2次)は、これを呑んだ。10月24日、根本龍太郎内閣官房長官から田中義男文部事務次官に「南極地域観測実施本部(仮称)を早急に設置し、それを文部省が所管すること」と依命通知する。南極観測参加の閣議決定は11月4日であるが、その1年後の1956年(昭和31年)11月8日、昼夜兼行の突貫工事でエンジンを交換し、両舷にバルジ(膨らみ)を設けて灯台補給船から砕氷船に改造された「宗谷」は、77名の乗組員と53名の観測・設営隊員を乗せて晴海ふ頭を出港する。平時には有り得ない緊急事業であるが、それを要望し、根回しし、実行したのは日本学術会議であった。要望や勧告だけの学術会議ではなかったのである。
地震や台風と違い、地磁気、電離層、宇宙線等の観測は、一般の国民には縁遠い分野であったが、政府が南極事業に踏み切ると、国民の関心はにわかに高まり、一大国民的事業となった。敗戦後、海外での活動が許されなかった日本国民が、未知未踏の天地で活躍する。それも侵略や征服でなく、科学の国際協力という形で。
敗戦や東京裁判、水爆実験による放射能雨で鬱屈(うつくつ)していた国民の心情に、明るい刺激となって共鳴したのだ。文部省や永田武・南極観測隊長は、科学的観測にこだわり、西堀栄三郎・副隊長(兼越冬隊長)等の山男たちが追う探検的活動を忌み嫌ったが、国民は、当初は計画されていなかった越冬隊の探検・冒険的色彩に酔い、故障続きの雪上車に代る犬ゾリ旅行に拍手した。
防衛庁による南極輸送も主導
「宗谷」の寿命や海上保安庁の空輸能力の限界を勘案し、1962年(昭和37年)2月に第6次観測隊が第5次越冬隊を収容した後、3年間中断した南極観測事業は、海上自衛隊が輸送を担当することになる。新観測船「ふじ」により1965年(昭和40年)11月から再開されたが、新造船の名前公募に44万通も応募があった。
再開後の輸送担当を防衛庁に切り替える計画と根回しは、早くも1962年(昭和37年)秋から始まっていたが、学術会議の一部から、それも南極事業に関係のない分野から異論が出た。学者の世界だから「自衛隊アレルギー」の会員がいても不思議ではない。だが歴代の隊長・副隊長は、「輸送を任せられるのは防衛庁以外にない」と和達清夫・第5期、朝永振一郎・第6期会長に上申する。文部、防衛、運輸、外務等の関係省庁次官会議も、これを支えた。その結果、1963年(昭和38年)8月、学術会議南特委は、恒久観測体制の確立と輸送を防衛庁担当とすることを決定し、引き続き閣議決定となった。
この1962年(昭和37年)秋と1965年(昭和40年)秋に第6期と第7期の会員選挙があり、まだ大学院生だった筆者も所属学会を通じて第4部(理学)の選挙人であった。立候補は自由なので、一匹狼の候補が学会長老を弾劾する過激な主張も見られたが、イデオロギー的な論議は少なく、「防衛庁の南極輸送に反対」という主張などはなかった。
この緊要な時期、第一次越冬隊長の西堀栄三郎氏と第三次・五次越冬隊長の村山雅美氏は、南特委専門委員として陸上幕僚監部武器課や防衛庁技術研究本部を訪ね、極点旅行に耐える雪上車設計の調査と根回しを行う。さらに社会党本部に出入りし、外交安保を取り仕切る石橋政嗣、勝間田清一両議員へ自衛隊に南極輸送の任務を与える防衛二法案成立の根回しまで行った(鳥居鉄也ほか編「南極外史」日本極地振興会)。
その10年後、新雪上車(技術試験・実用試験終了後、制式化され防衛庁78式雪上車に、さらに南極用SM50型雪上車となる)の耐寒性能試験中に、北海道を訪れた西堀氏が筆者に語った秘話でもある。
エピローグ
日本学術会議設立時のゴタゴタ、GHQとの軋轢や逆利用、主計官を無視して押しまくった南極観測推進などについて、郷里の大先輩、永井彰一郎・東大名誉教授(工業化学)はじめ、所属する京都大学地球物理学教室の先輩方、所属学会の大御所から、「機密ではないが公開資料にあまり載らない逸話」を沢山聞かせて頂いた。半世紀も前のことだ。
録音テープがないのでオーラルヒストリー(口述歴史)として発表できなかったが、その後これらを裏付ける幾つかの史料も発表され、参考資料として記せるようになったので、学術会議問題に別の角度から迫る史料として『偕行』2021年3月号に寄稿した。そのの前身「偕行社記事」は、偕行社員、すなわち旧陸軍将校が階級を超越して自由に論戦できる会誌だった。第一次大戦直後の1919年(大正8年)「騎兵無用論」が寄稿され、大論争となっている。この伝統を守り、今も論争を歓迎する「偕行」への拙稿がWedgeに評価され、掲載されたのは望外の喜びである。
最後に、本稿に関連する海外の参考事例を2件提示したい。1961年(昭和36年)、「宇宙線・地球嵐国際会議」でIGY委員長シドニー・チャップマン・オックスフォード大学名誉教授が京都を訪れた。その秘書を務め、書生のように和風宿舎へ泊まり込んだ筆者へ、第2室戸台風による停電の中で同教授が語った英本土防衛戦の実態は、チャーチルの「第二次大戦回顧録」には描かれていないものだった。戦前は反戦運動に励んだ科学者も、英国存亡の危機にはレーダー開発や、確率論・統計学を駆使して行う作戦研究に協力する。だが労働者の多くは、残業を拒否し、ストライキも行われたという。
一方、現代の米国では、科学アカデミーや各学会が国防総省のビッグプロジェクトのアセスメントを行い、時にはスクラップを迫っている。レーガン政権が打ち出した夢のようなSDI(戦略防衛構想)も、1987年(昭和62年)、米国物理学会の「指向性エネルギー兵器の科学技術」と題する報告が「実現可能か不可能か言えるのが何年先になるのかも不明」という懐疑的な結論だったので急すぼみになった。また同学会は2004年、「ブースト段階迎撃システムの科学技術的研究」、全米研究評議会(NRC)は2012年、「弾道ミサイル防衛の解明」と題する報告書で、北朝鮮の米国向け弾道ミサイルを地上発射のインタセプターによりブースト段階で撃破するのは、まだまだ開発できない高速インタセプターを中国かロシアの領土内に置かない限り不可能と述べて、安易な配備を断念させた。
日本学術会議も、迷走する我がミサイル防衛構想に提言できるほどの存在となることを切に願うものである。
1 杉山滋郎『「軍事研究」の戦後史』ミネルヴァ書房。平成29年
2 『思い出の人 茅誠司』茅先生遺構・追悼文集刊行会、平成7年
3 永田武『南極観測事始め』光風社、平成4年
4 鳥居鉄也ほか編『南極外史』日本極地振興会、昭和56年
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