今回は、第一回目のコラムでご紹介した、べてるの家。「またの機会に」とお約束していた「べてるまつり」と、当事者研究の広がりについてご報告したい。
千歳空港から車で約2時間半、海岸沿いの一本道をえりも岬に向かってひた走る。えりも岬へあと少しというところに、浦河町という人口1万4000人弱の町がある。電車だと、札幌から苫小牧経由で4時間ほどだ。
今でこそ道路が拡張され、きれいに整備されているが、今から30数年前の1978年、浦河という無人駅に降り立ったソーシャルワーカー志望の青年は、あまりの寂れ具合に「もしかしたらこの町で暮らすことになるかもしれないと考えたら、すごく後悔しました」と、当時を振り返る(『ゆるゆるスローなべてるの家』より)。
日高昆布やサケ、マスなどの漁業、サラブレッドの生産・育成を主な産業としているその町に、いつしか「べてるの家」という新名所ができた。年間見学者は3500人を超え、まつりやイベントが開かれると全国からどっと人々が押し寄せ、町の旅館やホテルはあっという間に満室となる。断っても断っても、宿泊の問い合わせが集中すると町の人は「また“べてる”で何かあるの?」と問い合わせの電話に逆に尋ねるようになった。
病気の苦労を笑って話せる場
かつて暗澹たる思いで浦河との初対面を果たした青年、向谷地生良氏は、浦河赤十字病院精神科のソーシャルワーカーをしながら、精神障害や精神疾患を抱える人、退院して行き場のないアルコール中毒の回復者たちの地域の活動拠点づくりを支援してきた。向谷地氏がやって来るまで活動が休止状態だった回復者クラブ「どんぐりの会」を再開させたささやかな集まりが、いまは精神障害や精神疾患、その他の障害を抱えた人たちの作業所、共同住居、NPO法人、有限会社などの事業体へと発展したべてるの家の前身ともいえる。
向谷地氏は、浦河に来た翌年から、当時牧師がいなかった町の教会に留守番を兼ねて住んでいたが、そこへ退院して住むところがなかった人たちが一緒に暮らすことに。一つ屋根の下で暮らしながらの支援だった。ソーシャルワーカーは、自分個人の連絡先も住所も教えないというのが今よりももっと常識中の常識だった時代、一緒に住んでしまうというその発想が当時からやはりちょっと違った。
そこでは、内職として始まり、やがてべてるの家独自の商売となった昆布の袋詰め作業などをしながら、またミーティングの場などで、メンバーが抱える幻聴や幻覚、妄想、それらを抱えながらの生活の苦労も、日常の中でふつうに語られていたという。