2024年4月24日(水)

近現代史ブックレビュー

2021年8月16日

半藤氏の『二・二六』観は「新しい」のか

 まず、二・二六事件に関する皇宮警察関係の新資料が発見されたと半藤氏はお考えのようだが、この皇宮警察の『二・二六事件警備記録』は鬼頭春樹『禁断二・二六事件』(河出書房新社、2012年)にほぼ同じものが紹介されており、新資料ではない(両者には用語・句読点など細部に相違があるが転写の際に生じたものと見られる)。私が著者の鬼頭氏にアドバイスしたことによって発見されたものである。

 鬼頭氏は、これをもとに種々考察しているので、半藤氏が「クライマックス」として紹介している中橋と大高少尉の対決なども同じ内容を鬼頭氏はすでに書いている。従ってまずそのチェックから行うべきで、そうした態度があれば既紹介の資料を新発見とするようなことは起きなかったであろう(なお、鬼頭氏の著作は、このような新資料発見があるものの類推が多く、評者は全面的に肯定しているわけではない)。

 松本清張の『昭和史発掘』が宮城占拠問題を初めて表に出したことは事実であり、これは二・二六事件研究史上大きな功績であった。それだけでなくそのほかにも事件関係の資料を多く集めて刊行しており、松本清張が事件研究上大きな貢献をしたことは間違いないところである。しかしその後が問題だ。

 生き残りの青年将校たちを集めてやった座談会(半藤氏は「殺人を犯していないという理由で死刑を免れた青年将校」と書いているが、殺人を犯していないにも関わらず死刑になった青年将校がいるからこれも間違いである)は、相当に怪しいものだった。とくに、中に湯川(清原)康平という青年将校がいるが、この人は実は裁判になって「この挙を勧めた人達を怨んで居る位であります」(予審尋問調書)などと言って青年将校たちをいわば「裏切って」死刑を免れた人なのである。色々と事情があったゆえのことであろうが、とにかくそのためにたくさんの嘘を残している。

 例えば、湯川は、26日朝、栗原中尉の命令で華族会館を襲った際、貴族院議員・原田熊雄を殺害することを命じられていたが実行しなかったので死刑にならなかったと書いている(湯川「命令!警視庁を占拠せよ!」『日本週報 ダイジェスト版』六)。しかし、裁判資料で明かになっていることは、26日朝ではなく昼頃宿営のために華族会館を訪れているが、その頃原田は興津の西園寺公望を訪れているから殺害未遂などは起きようがなかったということである。

 このように半藤氏がかなり依拠していたと見られる湯川は、事件研究に大きな障害だったので、信頼できる事件研究書北博昭『二・二六事件 全検証』(朝日選書)は、「二月二十五日の朝、私は妻に送られて玄関を出た」という湯川氏の記述が全くの間違いであることの指摘から始まっているくらいである(「蹶起」は重要度に応じて早く知らされたので25日朝までに知らされていたならば非常に早く、中枢部にいたことになるが、その日兵営に泊っていた湯川に妻との別れなどなかった)。

 そして、半藤氏は書いておられないが、1986年の座談会のはるか前1960年代の「二・二六事件と西園寺公」 『文藝春秋』(1967年6月)、「これが“昭和維新”なのだ」『文藝春秋』(1967年2月)で、湯川は宮城占拠計画について細かく書き語っている。実はこれらで、湯川はもっと荒唐無稽なことを言っているのでさすがに半藤氏も引用をはばかられたのかもしれない。

 とにかくこういう有様で宮城占拠問題の実像はつかめず混乱する一方だったので、私はそれまでの資料を徹底的に精査し直し、新資料も交えて宮城占拠計画問題を含めた事件の全貌を明らかにした研究論文を1977年に出したのだった(それが単行本に収められて出たのは『昭和期日本の構造』(有斐閣、1996年)である。その後『二・二六事件とその時代』(ちくま学芸文庫、2006年)となっており、現在は『二・二六事件と青年将校』(吉川弘文館、2014年)でも同じ内容を読むことが出来る。)

 そこで私は、宮城占拠計画は、中橋が一部の門をできれば確保するというにすぎないもので全面占拠計画などはなかったということを明らかにしている。その際青年将校がそのようにした理由は本庄侍従武官長・娘婿山口一太郎大尉のラインから青年将校たちは天皇が自分たちの味方をしてくれるという見通しを立てていたからだということも資料的根拠を明示しながら明らかにしてある。

 その後、二・二六事件の軍事裁判の資料も見つかり、私の説が正しいことはこの軍事裁判の資料からも明らかになっている(『二・二六事件東京陸軍軍法会議録』丸善雄松堂、2020~2021年参照)。半藤氏は「軍事裁判でも被告の青年将校たちは一言もそのこと(宮城占拠計画)には触れず」と書いているが、軍事裁判資料にはちゃんと出ている。

 これを発見した北博昭氏は、判決のところを『新訂 二・二六事件 判決と証拠』(朝日新聞社、1995年)として出しているが、そこには中橋について次のように書かれている。2月22日、青年将校は謀議し、中橋の任務は「為し得れば宮城坂下門に於て奸臣と目する重臣の参内を阻止すること」とし、24日に「前記坂下門に於ける重臣阻止の任務を決定」(15・17頁、原文カタカナ)。そして、その通り実際に警備にあたったが怪しまれて脱出した経緯も書かれている(23頁)。

 すなわち、40年以上前に私が明らかにし、26年前に活字になっているので誰でも読むことができる事件の裁判資料に書いてある、中橋による坂下門の警備活動にすぎなかったという事実を、半藤氏は自分が今回初めて発見したかのように書いているのである。

 そもそも、この軍事裁判の資料は30年以上前に発見されているのだから、現在はこの資料を見ておかないと二・二六事件については何も語ることが出来ないのだが、半藤氏はこれも見ておられないかのようだ。


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