ここまでで得られた情報を総合すると、ほぼ次のようになるだろう。M.K.さんは、仕事のし過ぎで疲れたためにこんな状態になったと「解釈」しており、睡眠薬で眠ることができれば元気になれると「期待」している。部下たちから悪口を言われているのではという負の「感情」をもち、仕事が進まず勤務評定への「影響」を気にしている。一方で、忙しくても重要な仕事に意欲を持って働けることが彼女にとっての「健康」な状態だと思っている。
PHQ-9(Patient Health Questionnaire-9)という9項目の質問からなる質問票(日本語版)を使ってうつ病の重症度を確認し、その最後の質問にもある「自殺を考えたり試みたりしたことがないか」については念を押して再確認して、自殺しないことを約束してもらった。大袈裟でなくこれが自殺予防として大事なのである。
そろそろ初回の診察をまとめなければならない。眠れないことには原因があって、M.K.さんの場合それはうつ病である可能性が高いこと、うつ病が改善すると眠れないことやその他の不調も改善していくこと、治療については、薬の必要性は徐々に明らからになってくるのですぐに処方はしない方が良く、まずはできるだけ日常の生活リズムを継続し、うつ病についての理解を深め、日々の生活の様子を振り返り、折々の自分の思いを日記のように書いてきてもらえないかと提案した。
すでに通常の診察時間を5分ほどオーバーしてはいたが、M.K.さんにとって今日の診察はかなり中身の濃い(もしかしたら圧倒されるような)ことになってしまった可能性があるので、説明と提案を細かく分割しつつ、彼女の理解と同意を確認しながら一歩一歩進め(“Chunk ’n’ check”と呼ぶ)、2週間後の再診を予約した。
日本で遅れるプライマリ・メンタルヘルス・ケアの整備
メンタルヘルスを世界的に見ると、うつ病でケアが必要な人々のうちケアを受けている人々の割合は、高所得国で28%、低所得国で7%でしかない。国の所得に関わらず、2030年にはうつ病が障害と死亡原因の1位〜3位になるという予測もある。
世界の家庭医学会が加盟する世界家庭医機構(WONCA)では、地域を基盤とした家庭医の診療(しばしば「プライマリ・ケア」と呼ばれる)現場でのメンタルヘルス・ケアを充実させることを優先課題として、世界保健機関(WHO)やアジア太平洋経済協力(APEC)と国際共同プロジェクトを進めている。私もWONCAからのメンバーとしてこのプロジェクトに参画している。
日本でもうつ病をもつ人は多く、生涯でうつ病にかかる人は100人に6人という調査結果もある。診療所や病院の外来で精神科専門医ではない医師が対応することも稀ではなくなっている。
ただ、そうした場合、日本の医師はすぐに頭部CTやMRIなどの画像診断検査と血液検査をオーダーし、すぐに抗うつ薬や睡眠薬を処方して、職場や学校から離れて自宅で休養をとること(場合によっては入院も)を勧める傾向がある。
メンタルヘルスでも、軽症・中等症が約8割を占めており、家庭医はそれらの状態を患者の生活の場近くで安全にケアできるとても良い立ち位置にいることが、今では多くの臨床研究のエビデンスで示されている。しかし、日本では、メンタルヘルスの問題を抱えた患者をプライマリ・ケアの中で適切にケアするための医師のトレーニングの機会が欠如していた。費用対効果も考慮した効率的なケアが標準化されてこなかったのである。
この課題に対処するため、WONCAの支援を受けて私は、2018年と19年に海外からこの分野で指導経験が豊富なエキスパート家庭医のべ8人を招聘して、日本およびアジアの若手家庭医療指導医を対象に、プライマリ・ケアでのうつ病と不安症の標準的なケアについて指導医講習会シリーズを開催した。受講者がそれぞれの診療・教育現場で、家庭医を目指す専攻医へとさらに教育の輪を広げていってくれることを期待している。
「今年ばかりは」が思い浮かんだら
実はM.K.さんの初回診察の中ほどで、私が彼女に確認のため質問したことがある。それは「ここ数年で家族や親しい人で亡くなった人はいませんか。ペットや他にも何か大切なものはどうですか」。そして「10年前の3月11日はどうしていましたか」という質問だ。
幸い、M.K.さんにはそのような喪失経験はなく、東日本大震災で高等学校の卒業式はなくなってしまったが、大きな被害には遭遇していなかった。喪失や災害の記憶に伴う悲嘆が「うつ病」の顔をしていることがあるのだ。