2024年11月22日(金)

家庭医の日常

2021年10月23日

 不思議なもので、私には、診療場面のあるところでいつも頭に思い浮かぶ言葉がいくつかある。一種の条件反射とも言える。そのひとつは、うつ病など気持ちが落ち込んでいる人や悲しそうな人の診察をする時に、あるタイミングでほとんど必ず、「今年ばかりは」という言葉が思い浮かぶ。

 M.K.さんの診察途中にも「今年ばかりは」がやってきた。それがどこからともなく聞こえてくる、とまで言うとちょっと私自身が病気のように思えて怪しいが(笑)、そのぐらい自然に思い浮かぶのである。そして「今年ばかりは」が思い浮かんだら、それはその人に喪失経験がないかを尋ねる合図なのだ。考えてみると、これは10年前の春からの条件反射だと言える。きっかけが2つある。

 『源氏物語』の『薄雲』に、愛する藤壺の宮の死に際し、源氏が「今年ばかりは」と独り言を言う場面がある。確かに紫式部は『源氏物語』に「今年ばかりは」としか書いていないのだが、学者の注釈を読むと、これは『古今和歌集』哀傷歌に収載された上野岑雄(かんつけのみねお)が堀河太政大臣藤原基経の死を悼んだ歌とされる

深草の野べの桜し心あらば 今年ばかりは墨染に咲け

 にかけていることがわかる。いにしえの読者は、「今年ばかりは」と読んだだけでこの歌を想起し、源氏の強い喪失経験に共感したのだろうか。本歌取りが行われていたとはいえ、当時の宮廷人の教養の高さに驚いていたのが一点。

 もう一点は、2011年3月11日からの大災害で多くを失った1カ月後、福島の桜が本当に皮肉なぐらい美しく鮮やかな色で咲いたのを見て、私自身が心底「今年ばかりは墨染に咲いて喪に服してくれ!」と叫ばずにはいられなかった悲しい経験があるからだ。

 これら2つの経験がさらに深く結びついたのは、後年、私が大和和紀の漫画『あさきゆめみし』で源氏物語を読む機会があり、この場面での源氏の嘆きが墨染桜の絵として記憶に強く定着したためだろうと思う。

「愛する人との死別」を悼む歌

 いにしえびとの教養だが、最近ふと「それがいわば流行り歌だったからみんなが当たり前に知っていたのではないか」と思いついた。そこで試しに、「愛する人との死別」をテーマとする歌の歌詞と言ったら何を想起するかを当講座で家庭医を目指して研修をしている専攻医たち(20代)に尋ねてみた(忙しい研修の合間に協力してくれた彼らに感謝!)。

 すると出るわ出るわ、すぐに答えが返ってきた。歌がリリースされた年代順に歌手・タイトルと「心に刺さった」歌詞を並べてみると次のようになる。この記事の読者の皆さんにも共感できる歌詞があるかもしれない。

 山崎まさよし『One more time, One more chance』(1997)いつでも捜しているよ どっかに君の姿を / 平井堅『瞳をとじて』(2004)消し去ろうと願う度に 心が体が君を覚えている / 秋川雅史『千の風になって』(2006)そこに私はいません 死んでなんかいません / コブクロ『蕾』(2007)絶やす事無く 僕の心に 灯されていた 優しい明かりは あなたがくれた 理由なき愛のあかし / 宇多田ヒカル『花束を君に』(2016)抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に / Mr.Children『himawari』(2017)そんな君を僕は ずっと / 米津玄師『Lemon』(2018)胸に残り離れない 苦いレモンの匂い / 藤井風『帰ろう』(2020)ああ 全て与えて帰ろう ああ 何も持たずに帰ろう


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