最初にこの問題を告発したロシアの女子陸上選手、ユリア・ステパノワ氏は「ロシアのスポーツ選手の間では、ドーピングは普通の話だった」と打ち明け、検体の意図的な破棄や、ドーピングの専門知識を悪用した検査所職員が選手にわいろの要求をしていた泥沼の実態も白日の下にさらした。
ロドチェンコフ氏もステパノワ氏もロシア国内の保守派からは「ユダ(裏切者)」呼ばわりされ、すでにロシアを去った。ロドチェンコフ氏は妻子を残して、米国に逃れた。亡命が認められ、ホワイトハウスの証人保護プログラムによって米国内の秘密の場所で暮らしている。17年にはモスクワの裁判所がロドチェンコフ氏の逮捕状を取り、国際指名手配を申請することが報じられた。
ロドチェンコフ氏の命がけの告発は、米映画界の最高の名誉であるアカデミー賞も受賞した。17年にロドチェンコフ氏の証言を元に制作されたネットフリックスのドキュメンタリー作品「イカロス」は第90回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。
20年夏の英紙フィナンシャル・タイム紙のインタビューで、ロドチェンコフ氏は「政治腐敗の成れの果てです。プーチンとその一味は完全な犯罪者集団ですから」と語った。そうして、ドーピングの専門知識を悪用して、不正に関わったその動機について「義務でした。他に選択肢はなかった。私のキャリアは、ひとえにロシア選手のソチ大会での活躍にかかっていた」とも明かした。
この記事では、プーチン政権の反体制派の抹殺のように、ロドチェンコフ氏には暗殺計画があるとも明かされた。
ドーピング問題での一番の被害者は
ロドチェンコフ氏が恐れているのも無理はない。ロドチェンコフ氏の側近で、組織ぐるみのドーピング禍の中枢にいたとされるRUSADAの元最高責任者のニキータ・カマエフ氏と、ビャチェスラフ・シニョフ元会長の2人が16年2月に相次いで死亡した。
それでもこの事実はロシア国内でもほとんどニュースに報じられなかった。後に、英紙サンデー・タイムズはカマエフ氏が同紙のスポーツ部門チーフ記者にEメールを送信してきて、「私はこれまで公表されていない事実や情報を握っている」と調査報道の依頼をしてきた事実を明かした。
「死人に口なし」――。カマエフ氏はロシアのドーピング禍の闇を訴えようとしたときに亡くなったのである。
ロシアのドーピング禍の被害を受けてきた世界のスポーツ界が、北京大会でのワリエワ選手の問題発覚を受けて、「また、ロシアの選手が汚染されているのか」という思いをするのも無理はない。
筆者は以前、新聞記者時代にこの問題を発表したときに、文章の最後にこう記して、記事を閉じた。
「今回(ドーピング禍)の問題の最大の犠牲者は不正に手を染めず、自身の生涯をかけ、五輪を目指して頑張ってきた他の選手であり、将来、スポーツ界で輝くことを夢見てきたロシアの子供たちである」
ワリエワ選手はもしかしたら誤って禁止薬物を服用したかもしれない。だとすれば、リンクで流す彼女の涙を見たとき、再び、この感情がわいてくるのである。