人権保障の視点から生活保護行政を批判する人は、「なぜ困っている人に寄り添った対応ができないのか」「なぜ、傷ついた人をさらに鞭打つような質問を重ねるのか」「人にはそれぞれ事情がある。その事情を踏まえて対応すべきである」という。
一方で、不正受給を許せないと批判をする人は、「生活状況を把握できない人に保護費を渡すなんてとんでもない」「連絡をせずにいなくなったのは、本人の責任。考慮する必要などない」という。
こうした言葉に、「よき公務員でありたい」と思う真面目な新人職員ほど傷つき、心を病むことになる。
孤立し、追い詰められた生活保護の担当者の苛立ちや怒りは、その原因となる利用者に向かう。幸いにして、批判するに足る特性をもつ利用者には事欠かない。「無駄な税金の支出を抑えて、『本当に必要な人』にだけ保護費を渡すのがよい公務員である」と自分の仕事を定義づければ、無駄に悩む必要もない。
こうして弱い立場にある者が、更に弱い立場の者を責める構造ができあがることになる。
「現状を変えたい」と思う人たちの応援を
嫌われものの生活保護の職場だが、自治体によってはもう一つの機能を持たせているところがある。その機能とは、「将来有望な新人を鍛える修行場」である。
生活保護とは人の生き死に直結する。「最後のセーフティネット」といえば聞こえはいいが、建前を外せば、人のもっとも嫌な面を毎日のように見ることになる。人権保障と不正・不適正受給の防止という矛盾する二つの政策目標の両立を迫られ、正解のない問題に対して、何とか折り合いをつけなければならない。
こうした経験は、行政職員としてキャリアを歩んでいくうえで大きなプラスになる。注意深くみていくと、行政出身の首長や、首長を補佐する幹部職員のなかには、若いうちに生活保護業務を経験したことがある人が少なくない。そして、そのうちの何人かは、権限をもったあとに現状を変えるための具体的なアクションをしていく。
一連の経過を丁寧にみていくと、足立区では、現場レベルで「適正な対応だった」という取材対応のあと、一転して、問題があったことを認めている。今回の事件は東京新聞が継続的に記事にしているが、他社の追随はなく、社会問題といえるほど批判の声が強かった訳ではない。外圧のないなかで、行政が方針を変えることは珍しい。
経験上、このようなケースでは上層部のキーパーソンによる関与がある。足立区の場合は、途中で責任者が福祉事務所長から副区長に変わった。
その後は、支援団体からの抗議文書の受け取り、当事者への謝罪、同団体との意見交換会など、一貫して副区長が区の責任者として前面に立っている。検証報告の公表までに、副区長のリーダーシップが大きく影響していることは想像に難くない。
足立区の長谷川勝美副区長のキャリアの振り出しは、生活保護のケースワーカーである。
「現状を変えたい。困っている人に寄り添う行政でありたい」――。そう思う行政の担当者は少なくない。それを見極め、よい取り組みであれば正当に評価し、応援をする。そうした社会であってほしいと、筆者は思う。