話し手・出井康博/倉田良樹/高橋信行
聞き手・構成 編集部(大城慶吾、友森敏雄、鈴木賢太郎)
編集部(以下、──)外国人労働者やそれらを取り巻く問題に、どのような形で関わってこられたのか。
倉田 私の専門は労働社会学だ。経済がグローバル化する中で、外国人の働き方の変化に注目してきた。日本における外国人労働者問題といえば、1990年の入管法改正(編集部注・「定住者」の在留資格が創設され、日系3世まで就労ビザが出るようになった)以降のことが注目されるが、私はその前の80年代半ばから研究を始めた。当時は、大企業の本社で働く専門職の外国人、今で言う「高度人材」と呼ばれる人材もたくさんいた。その後は、中京地区における日系ブラジル人や技能実習生の問題を研究した。2020年、一橋大学を退官して福知山公立大学に移り、現在は地方における外国人労働者問題に注目している。
高橋 私は1989年に、フィリピンで電子部品の製造会社を立ち上げた。その後、シンガポールや香港に、フィリピンから家事を手伝う「メイド」がたくさん渡っていることを知った。そこで、日本にもメイドを派遣できないかと考え、00年に新たな会社を設立し、トライ・アンド・エラーを繰り返しながら日本の一般家庭にフィリピン人のメイドをトライアル派遣した。しかし、自分の認識が甘かったことを痛感させられた。当初は、ビジネスとして簡単にできると考えていたのだが、日本はやはり特殊だった。
例えば、家主から「何かあったら電話は自由に使ってもいいからね」と言われたメイドが、長時間電話を使ってしまい、高額の電話代がかかり、トラブルになったことがあった。家主にしてみれば、常識的な範疇で使ってもいいと言ったつもりであったが、メイドに聞いてみると「自由に使っていいからと言われたから……」と困惑していた。こうした言語の壁や文化の違いを乗り越えるには、相当の時間とコストをかけなければならないことを知った。日本という特殊な島国で外国人に働いてもらうには、雇う側にも覚悟がいる。それは、今でも変わっていない。
こうした経験をしたことで、数合わせで外国人労働者を日本に送るだけでは、受け入れる側にも、働く側にも不幸が起きてしまうと考え、技能実習生の送り出し、受け入れ機関の運営にも乗り出した。
フィリピンで事業をする中で、昨今は急速な変化が起こっている。例えば、フィリピンからは、経済連携協定(EPA)によって09年から看護師・介護士の受け入れが可能になった。支援するわれわれの元にも、当初は40人のクラスに1000人超の応募があるなど、人気があったのだが、現在では応募は10人程度、ひどい時には一桁ということもある。日本に行かなくても、言葉の問題が少ない欧州やイスラエルなどでも受け入れが始まったほか、フィリピン国内でも、コールセンターなど比較的給与水準の高い仕事が増えていることが影響している。