「死力を尽くして戦え」が生んだ大投手
大会が生んだ大投手もいた。京滋地区代表、平安中学(現竜谷大平安高)の富樫淳だ。大阪地区代表、市岡中との1回戦、7四死球を出しながらも無安打無失点に抑え、ノーヒットノーランを達成した。続く東海地区代表、一宮中学との対戦でも六回1死後の1安打だけに抑えて完封勝利を挙げた。
だが、一宮の最後の打者を見逃し三振に打ち取ったとき、富樫の右肩に「これまで経験したことがない」激痛が走った。準決勝を翌日に控え、富樫は球場に近い自宅に戻り、姉の手で夜通し温湿布治療を受けた。
翌28日、平安と西中国代表、広島商業との準決勝は第2試合に組まれていた。第1試合で徳島商業が近畿代表、海草中学(現和歌山県立向陽高校)を1-0で下し、決勝進出を決めた。
続く第2試合、プレーボール直後から降り始めた雨が次第に強まる中、富樫は直球を封印、カーブ中心の投球で広島商業打線をかわす頭脳派投球でスコアボードに0を重ねた。両チーム無得点で迎えた5回表の広島商業の攻撃中、雨脚は土砂降りとなって、試合はここで中断。ノーゲームとなった。
<仕切り直しの試合は翌8月29日午前8時から。(略)広商、平安いずれが勝つにせよ、勝てばわずかな休憩だけで、待ち受ける徳商と引き続き試合しなければならない。しかし、「不公平」を口にする者は誰もいなかった。大会の目的はあくまでも「錬成」にある。勝負や観衆の興味は二の次。両チームを平等の条件で戦わせよう、という考えは競技至上主義として排され、日程の有利、不利ごときは超越して精神力で頑張りぬくのが称揚される時代であった。(『わかれは真ん中高め』252頁)
平安中学と広島商業の再試合。晴天が戻った甲子園球場で行われ、連投の富樫は速球を捨て、カーブ主体の投球で広商打線抑え込み、8―4で競り勝って決勝戦へと駒を進めた。徳島商業との決勝は昼休みを挟んだ午後のプレーボールとなった。
まさに「死闘」となってしまった決勝戦
<午後1時57分、今大会における最後の試合が始まった。スタンドは立錐の余地もなく、席の取れなかった観客は通路に腰を下ろしていた。一説には6万とも8万ともいわれる大観衆が、両雄の決戦に声援を送った。注目は平安中学の先発投手であったが、発表された名前は富樫淳であった。数時間前に、広島商業との熱戦を制したばかりの平安ナインが、土に汚れたままのユニホームでグラウンドへと姿を現した時、甲子園は地響きのような大喚声に包まれた。>(『幻の甲子園』297~298頁)
決勝戦は大観衆の期待した通りの大熱戦となり、6-6で延長戦へともつれ込む。延長十一回、平安は富樫を懸命にリードしてきた捕手、原田清の適時打で貴重な1点を奪う。その裏、最後の守りに就いた平安だったが、マウンドの富樫はとっくに限界を超えていた。
先頭打者を四球で歩かせると、その後も制球がままならず、続く打者にも四球を与えた。この後、送りバント失敗と三塁への盗塁失敗で2死をとったものの、続く3人の打者に連続四球を与え、押し出しの同点となった。なおも満塁、一打サヨナラの場面だ。
打席に入ったのが9番の2年生、林真一だった。ここで徳島商の稲原幸雄監督は伝令を通じて林にこんな指示を出す。<「球がピッチャーの手え離れたら、目えつぶってジーッと立っとれじゃ。ええな、目えつぶってぞ」(略)経験の浅い者にこんな大舞台の、大場面でヘタに「ボールに手を出すな、くさい球を狙え」とでも言おうものなら、かえってボールに手を出してしまうことになりかねない。林のボールカウントは2-3になった。5球ともバットはビクつきもしなかった。>(『わかれは真ん中高め』259~260頁)
運命の1球。富樫が渾身の力を込めたストレートがホームプレートの真ん中を通過した。「よしっ、入った」と富樫が快哉を叫んだのと、(球審の)天知俊一の「ボール」の宣告はほとんど同時であった、と『わかれは真ん中高め』は伝えている。戦時中に行われた中等学校野球の最後のプレーは、押し出しによる徳島商業のサヨナラ勝ちによる優勝で幕を閉じた。