またポジションがら致命傷にもなりかねない、ハイパントやキックオフなどの高く蹴りあげられ飛んでいるボールの遠近感を掴むのが苦手だった。
「フォワードなので近場の勝負はいいんですが、バックスにボールを回して広くグラウンドに展開すると難しくなってしまうんです。周りの選手の動きを見ながら、この選手がこう動いたからボールは今どの位置にあって、どのように動いているのかを判断して、自分の動きを決めていました。でも最初のうちは、自分の中ではぜんぜん出来ていなかったと思っています」
だが、近藤はこうした障害を一つひとつ乗り越えながら2年生の春シーズンからスターティングメンバーに名を連ねた。
だが、全国大会山梨県予選の決勝戦で、近藤は背番号19をつけた。最後の最後、花園まであと一歩というところでポジションを譲ることになった。メンバー登録25選手のうち2年生は近藤ただ一人。残りは全て3年生だった。
結果は「日川高校0-0桂高校」山梨県大会としては両校優勝である。しかし、花園への切符は1枚だ。無情にも桂高校は抽選で出場権を奪われた。
「その年は桂の方が強いと思われていましたし、僕らも勝てると思っていたので悔しい思いをしました。試合に出ていないことも勝てなかったことも、どちらも悔しかった」
実はこの前年の決勝戦も「日川高校11-10桂高校」という僅差の勝負に敗れている。実力は互角。まさに好敵手というにふさわしい両校であった。
キャプテンを任されるも負けが続き…
入部1年目は1点差に泣き、2年目は両校優勝ながらも抽選で敗れ天を仰いだ。
そして関係者の誰もが「今年こそ」と期待する新チーム結成とともに、近藤はキャプテンに推された。また新年度、顧問が岡昌宏に代わった。これは日川と桂の両監督が入れ替わるという異例の人事異動であり、両校部員に少なからず動揺を与えたに違いない。
この新チームで前年試合に出た経験のあるのは近藤とわずか数人である。経験不足は否めなかった。春先から勝てない試合が続いた。周囲の期待に応えられずキャプテンとして精神的重圧を受けた。
「僕は口下手だから、口で言うよりも身体を張って示していました。いくら偉そうなことを言っても日常生活でいい加減なことやっていたら誰もついてきてくれません。お手本じゃなきゃいけないし、自分がしっかりしなきゃいけない。さぼらずに真面目にやっていれば、きっと誰かしら見ています。僕がまとめるというよりも、チームみんなで「まとまろう」と言い合って、助け合ってチームが一つになっていきました」