こうした逆風下、東京相撲は消防活動という社会奉仕に名乗りを上げることで存在意義をアピールし、危機脱出の機運を作り上げていった。関係者の努力が効を奏し、1878(明治11)年に東京警視庁は府税を払うことを条件に興行を認める鑑札制度をスタートさせ、相撲興行が正式に認められるようになった。
「晴天十日」の興行
東京相撲の地位を不動のものにしたのが1884(明治17)年、浜離宮延遼館で開催された天覧相撲だった。明治天皇のほか、皇族や政府高官、外国公使らが相撲を観戦した。その模様を新聞各紙は錦絵入りで紹介し、相撲の地位は格段に向上した。
当時の東京相撲の興行は、本所回向院の境内で年2回、本場所が行われた。回向院は1657(明暦3)年の「明暦の大火」で焼死した多くの無縁仏を供養するため、隅田川の東岸に建立された寺院だ。無縁仏供養の寄付を募るため、勧進相撲が行われるようになったのが相撲興行の始まりという。
本場所は「晴天十日」の開催だった。露天の興行なので、雨の日は中止になる。翌朝、雨が上がると触れ太鼓が東京の市中を回るが、相撲が行われるのは触れ太鼓の翌日になるので最低2日は興行ができない。
雨天中止になっても、興行主は力士や行司ら関係者に炊き出しによる食事を用意しなければならず、経費が掛かる。明治以降、雨の中断なしで1月の春場所を10日間で終わったのは、わずか3回しかなかったというから、毎年不順な天候に泣かされてきた。
そんな事情もあって、相撲関係者が待望したのが天候に関係なく10日間で興行ができる「屋内施設」だった。
常設館建設の機運
1906(明治39)年になると、「角力常設館国庫補助建議案」が衆議院に提出され、可決された。貴族院には送付されなかったため、国庫補助は実現しなかったものの、常設館建設の機運は高まった。同年3月、候補地とされた江東小学校跡地を管理する本所区は臨時区会を開き、協会から出ていた跡地の払い下げ請願を賛成多数で決議し、常設館建設が具体的に動き出した。
敷地の面積は1500坪(約5000平方メートル)。協会は払い下げを受けた。ここにドーム型の屋根を持つ約1000坪の円形の鉄骨組の建物を建設する。
設計者は東京駅や日本銀行本店などの建築で名高い辰野金吾博士。当時としては東洋一の巨大建築物だった。観客席は1階が17段からなるひな壇式桟敷席で、2階から4階までは蓆を敷いた座敷席で、総定員は1万3000人。これは回向院の掛け小屋時代の4倍に上った。