2024年11月22日(金)

スポーツ名著から読む現代史

2023年1月6日

難航した名称の決定

 1907(明治40)年8月に基礎工事が始まり、2年後の1909年5月に完成したが、最後の最後まで決まらなかったのが常設館の名称だった。東京相撲の支援者で、常設館建設委員会の委員長を務めた板垣退助伯爵は常設館の開館式を4日後に控えた同年5月29日、委員会を開き、「角觝 (すもう)尚武館」を提唱し た。しかし、委員からは「相撲には必ずショウブ(勝負)があるのだから、いまさらショウブカン(尚武館)と呼ばなくてもいいだろう」という発言が出て、板垣案は却下された。

 委員会では「東京大角力尚武館」「相撲館」などさまざまな案が検討されたが、結論は持ち越しになり、協会に一任されることになった。協会は早速役員会を開いて協議。席上、尾車文五郎検査役が「国技館」はどうかと声を上げた。

 この館名は初興行披露状の中にある「角力(すもう)は日本の国技」からヒントを得たものだった。披露状を書いたのは好角家の小説家、江見水蔭。

 披露状の一節はこうだ。<「抑(そもそ)も角力は日本の国技、歴代の朝廷之を奨励せられ、相撲節会の盛事は、尚武の気を養い来たり」(略)。国技館なる館名は一同の賛同が得られた。>(100~101頁)

 板垣委員長は了承したものの、内心は不満だったようだ。6月2日の開館式の式辞後、新聞社の取材に、こんなコメントをした。「国技館なんて云い悪(にく)い、六(むつ)かしい名をつけたのは、誠に拙者の不行き届きで今更詮なけれど、じつは式辞言句中にある武育館とすれば、常設館の性質や目的も判明し、且、俚耳にも入り易いのに惜しい事をした」(東京朝日新聞、明治42年6月4日)

 板垣伯爵には不評だったが、一般の受けは良く、国民の間に定着していった。最初の本場所となった1909(明治42)年夏場所は連日大入り満員、空前の大盛況となった。新聞各紙が伝えた目算の入場者数は定員の1万3000人を超える1万7000人余りに達した。

 「国技館」はやがて全国に広まっていく。<明治45年2月開館の浅草国技館を皮切りに、京都国技館(明治45年6月開館)、名古屋国技館(大正3年2月開館)、大阪国技館(大正8年9月開館)等、国技館の名が付いた相撲場が次々誕生したが、これは国技館の名称が好評だったことを裏付けるものである。>(102頁)

 興味深いのは、国技=相撲のイメージが広がったことだ。同書によると、「国技」という言葉が初めて使われたのは、江戸時代の化政期に、隆盛した囲碁についてだったという。各地に国技館が開館するに及び、「相撲は国技」の認識が出始め、これを一歩進めた「相撲が唯一の国技」の認識も出てきたと指摘する。(103頁)

「国技」と「武道」の分離

 さらに面白いのは「国技・相撲」と「武道」の分離だ。1934(昭和9)年、皇居内にある皇宮警察の武術鍛錬場「済寧館」で皇太子誕生を祝う「天覧武道大会」が開かれた。行われたのは剣道と柔道の試合だった。明治時代は武道の範疇に入っていた相撲が武道から外されたのである。

 時代はだいぶ下るが、相撲と同じように、剣道と柔道の殿堂を作りたいと考えた国会議員剣道連盟と同柔道連盟の働きかけで、1964(昭和39)年、皇居に隣接する北の丸公園にできたのが「日本武道館」だった。

 1909(明治42)年に開館した国技館は、1917(大正6)年の火災や、1923(大正12)年の関東大震災などで再三、大修理を経験した。さらに1945(昭和20)年3月の東京大空襲で炎上、大きな被害を受けた。

 終戦後、連合軍に接収され、メモリアルホールと改名、大相撲は1950(昭和25)年から蔵前の仮設国技館に舞台を移した。1985(昭和60)年に3代目となる「国技館」が両国に完成、大相撲の殿堂として現在まで相撲人気を支えている。

 オリンピックの正式種目となった柔道や、世界選手権も開かれている剣道をいまさら「国技」と認定せよ、という主張は聞こえてこない。「国技館」で開かれているから「相撲は国技」。明治の相撲人たちに一本取られたということにしておこう。

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