調整、議論に向けた大統領のシグナル
大統領制の下では、大統領も連邦議会議員も独立した選挙で国民によって選出される。米国では、二大政党の指導部は候補者指名権を持っておらず、党の候補となるには予備選挙を独自に勝ち抜く必要がある。そのため、同一政党に属する政治家であっても、異なる公約を掲げている可能性が十分にある。連邦議会議員が大統領を支える義務もない。
4年に一度行われる大統領選挙では、大統領候補は綱領と呼ばれる選挙公約を掲げて選挙戦を戦う。だが、米国では、大統領は法案提出権を持っていない。そこで、大統領が公約を実現するためには、連邦議会の議員に、その内容の法律を通してほしいと依頼する必要がある。
米国では日本流の党議拘束が存在しないので、大統領の掲げた綱領が連邦議会議員の行動を縛るわけではない。議員は気に入らない政策案を法律にしようとはしないだろう。
とはいえ議会も、大統領の意向を無視するわけにもいかない。自分たちが通過させた法案を大統領が拒否した場合、それを乗り越えて法律を成立させるには上下両院で出席議員の3分の2以上の賛同を得る必要がある。このハードルを乗り越えるのは困難なので、議会も、大統領の方針とある程度合致する内容の法案を作成するのが合理的となる。
年に一度、通例2月に大統領が発表する一般教書は、行政部と立法部の機関間の調整、場合によると議論の深化を目指して、大統領が送るシグナルなのだ。だが今日では、一般教書演説は機関間の対話を促すだけではなく、党派対立、さらには、政党内対立を巻き起こす機会にもなっているのである。
過去の一般教書演説の歴史について
一般教書演説は、ずっと今と同じ方式で行われてきたわけではない。初代大統領のジョージ・ワシントンは1790年に最初の一般教書演説を行い、連邦議会議員に語りかけた。だが、第3代大統領のトマス・ジェファソンはその方式を拒否した。
彼は、米国の大統領が、ヨーロッパの君主のような大きな権力を持つ存在になってはならないと主張し、連邦政府よりも州政府が、また、大統領よりも連邦議会が中心的な役割を果たすべきだという立場をとっていた。一般教書についても、大統領が目立つ形で国のあるべき姿を語るのは好ましくないとして、演説を行うのではなく書簡を連邦議会に送付することにした。
その結果、1801年から1913年まではその方式が踏襲され、再び演説という形で教書が発表されるようになったのは14年のウッドロウ・ウィルソン大統領以降のことだ。
一般教書演説は23年(カルビン・クーリッジ大統領)にはラジオで、47年(ハリー・トルーマン大統領)にはテレビで放送されるようになった。それを受けて、一般教書演説の主なターゲットは、議会だけではなく一般国民に拡大した。