仏教は生きる人の羅針盤になるべきもの
藤岡さんは、この十数年で葬送儀礼の変化を感じ取ってきた。「これまで多くのお寺は檀家のお布施に支えられてきた。しかし、通夜や葬式、法事などが簡略化され、檀家も減少傾向にある中、お寺の経営は苦しくなっている。バーのお客さんからは『法事は面倒で費用がかさむのでやりたくない』という声もある。今後はお寺側も社会に開かれた存在になることが必要ではないか」と話す。
前出の石田さんもこう語る。「最近では、元DJの僧侶が〝テクノ法要〟を行ったり、極楽浄土のイメージを可視化するためにお寺でプロジェクションマッピングを実施したりと、従来の常識にとらわれない動きもある。不謹慎だと考える人はいるかもしれないが、仏教を身近に感じてもらい間口を広げていくことも大事になってくるのではないか」。
多死社会の到来を迎え、藤岡さんは「生きている人のために仏教を説くことが大切な時代になってきた」と感じているという。
「多くの人は葬式や法事の他に、仏教に触れる機会は少ないが、本来仏教は死者を弔うためのものではなく、生きる人の羅針盤になるべきもの。だからこそ、宗派を問わず、仏教の教えを伝えていきたい」
藤岡さんの当面の目標は、「坊主バーを〝お寺化〟する」ことだ。バーにお寺が付属するのではなく、お寺にバーというオプションが付いているというイメージへの転換を図り、お酒がなくても法要に来てくれる人を増やしたいと考えている。藤岡さんは「バーを呼び水に、もっと踏み込んで仏教を伝え一緒に学んでいける場所、人が集う憩いの場所を作っていきたい」と意気込む。
今でこそ僧侶が経営するバーやカフェは増え、その存在は珍しくなくなった。しかし、先駆者である藤岡さんは、すでに次なる僧侶のあり方、お寺の姿を描き始めていた。
「人が死ぬ話をするなんて、縁起でもない」 はたして、本当にそうだろうか。死は日常だ。その時期は神仏のみぞ知るが、いつか必ず誰にでも訪れる。そして、超高齢化の先に待ち受けるのは〝多死〟という現実だ。日本社会の成熟とともに少子化や孤独化が広がり、葬儀・墓といった「家族」を基盤とするこれまでの葬送慣習も限界を迎えつつある。そのような時代の転換点で、〝死〟をタブー視せず、向き合い、共に生きる。その日常の先にこそ、新たな可能性が見えてくるはずだ。