外交は軍事の一部であり、軍事は外交の一部
第二には、被侵略国の抗戦意志と能力の重要性である。満州事変やクリミア侵攻において、十分な抗戦意志と能力を示せなかった被侵略国(当時の中国やウクライナ)に国際社会は冷淡だった。逆に日中戦争やウクライナ戦争において、国際社会の支援を引き出したのは被侵略国の断固たる抵抗であった。
自己防衛努力を怠った被侵略国に対し、国際社会がリスクを取ることはない。国際社会において規範意識や正義観念が持つ力は決して小さくはない。しかしそれは無限でも無償でもない。われわれは国際社会が国益を賭すに足る抗戦意志と能力を備えなければならない。
また同時に、被侵略国の抗戦意志や能力は侵略国に事前に了知させなければ意味を半減する。満州事変とクリミア侵攻において被侵略国はこの点で誤ったメッセージを送り、その後も侵略国に与えた印象を払拭することができず、日中戦争とウクライナ戦争を招いてしまった。平和を希求し、話し合いによる問題解決を優先することは当然だが、それが「弱さ」と受け取られることは避けなければならない。
戦後長く、われわれは外交と軍事を二項対立構図で認識してきた。しかし本質的に外交は軍事の一部であり、軍事は外交の一部である。両者はイコール関係ではないが、しかし分かち難く結びついている。われわれは国際紛争の外交的解決を望むからこそ、相手国に外交的解決を「強いる」ための軍事的担保を怠ってはならない。
同盟の意義を再認識せよ
第三に、国連による集団安全保障が実効性を持たない現状で、集団的自衛権とそれに基づく同盟の持つ意義の再確認である。中国もウクライナも軍事的同盟国を持たなかった。同盟国の不在は自国防衛を著しく困難にしたのみならず侵略自体を誘発した。ロシアはウクライナの北大西洋条約機構(NATO)加盟阻止を戦争理由に掲げたが、裏を返せば、集団防衛機構たるNATO加盟後では武力行使が不可能になると認識していたことを示している。
またNATO諸国はウクライナに対して武器支援や訓練支援を大々的に実施しているが、ロシアはそれを実力阻止するに至っていない。ロシアがバルト三国のような相対的弱小国家に対しても軍事的制裁に踏み込めないことは、同盟の持つ抑止力の大きさを物語っている。われわれは同盟あるいは集団的自衛権が弱小国家の自己防衛において極めて重要であることを再認識すべきである。
もちろん同盟は万能ではない。いわゆる「同盟のジレンマ」(「見捨てられる恐怖」と「巻き込まれる恐怖」)は宿命的な問題である。同盟へのコミットメントの程度は常に慎重に計算され調整されなければならない。
しかし総じて日本における従来の同盟(集団的自衛権)議論は「巻き込まれる恐怖」に比重が置かれ、「見捨てられる恐怖」は等閑視される傾向にあったことは否定できない。「同盟のジレンマ」は日本のみに発生する現象ではない。米国には米国の「巻き込まれる恐怖」があり、それは日本から見れば「見捨てられる恐怖」に繋がることを忘れるべきではない。
同盟国は決して自明の存在ではない。かつて日英同盟を失った日本が二度と真っ当な同盟国を得られなかった事実(たどり着いた提携国がナチス・ドイツとファシスト・イタリアだったことは悲劇である)、ウクライナがNATO加盟を熱望しながらそれを果たせていない事実を軽視すべきではない。われわれは自己中心的な国際観から脱却すべきである。わが国は道徳的意味においても戦略的意味においても同盟国にとって「守るに足る」存在であり続けなければならない。