自転車旅で発見したレンタカー旅行で見逃していたもの
自転車でニュージーランド(NZ)南島を周った。総走行距離約2100キロ。20インチの折り畳み式自転車(チビチャリ)に15キロの荷物を満載して平均時速10キロというスロー旅。25年前レンタカーでNZを家族旅行したが、今回はスロー旅のお陰で自動車旅行では見逃していた発見がいくつかあった。
2月初めに南島最大の都市クライストチャーチの空港から市内に向かった。空港と市内中心部を結ぶ幹線道路の名前は「メモリアル・アベニュー」。空港近くの礎石には『全ての戦いで亡くなった祖国の英雄のためにメモリアル・アベニューと命名する』と由来が記されていた。
アンザックはニュージーランドの誇り
クライストチャーチのホステルにTシャツを着たNZの中高年がいた。Tシャツには銃を持った兵士のシルエットとNZとオーストラリアの国旗がANZACというロゴの下に描かれていた。
ANZACとは両国の連合軍団であり同胞国家としての両国の紐帯の象徴であると誇らしげに解説。ベトナム戦争など幾多の戦争で両国はANZACとして戦ってきたと胸を張った。彼の兄がベトナム戦争に従軍したことが誇りだという。
自転車で走っていると都市はおろかどこの田舎町に行っても必ず戦没者慰霊碑を見かける。ガソリンスタンドと雑貨屋と数軒の民家しかないような人口数百人の村でも立派な慰霊碑がある。
驚いたのはテカポ湖に向かう国道8号線沿いにあった慰霊碑。ジェラルディンとフェアリーという田舎町を結ぶ田舎道、丘陵地帯を拓いた牧場が広がっている。Gapes & Beautiful Valleyというこの地域の有志が建立した慰霊碑によるとこの丘陵地帯は第一次世界大戦で7人もの戦死者を出している。第二次世界大戦でも1人が亡くなっている。
南島の北東のセドンという葡萄畑が広がる村は現在でも人口550人足らず。慰霊碑によると第一次世界大戦では10人が戦死。騎兵ライフル連隊、砲兵隊員の戦死者が多い。フランスのソンムでは5人も亡くなっている。ソンムと言えばレ・マルクの『西部戦線異状なし』で有名な独仏国境塹壕の激戦地だ。第二次世界大戦ではイタリアの激戦地カッシーナで数名、そして南太平洋、北アフリカなど広汎な地域で戦死者を出している。
南島の北端の港町ピクトンは人口4400人であるが、退役軍人クラブの庭に並べられた出征者のプレートを数えると第一次世界大戦で40人、第二次世界大戦で25人が出征している。内2人の所属部隊がロイヤル・エアー・フォース(英国王立空軍)であった。
第一次世界大戦で男子の5人に1人が出征したニュージーランド
セドンとピクトンの例でも分かるように人口に対して異様に出征者の数が多い。現在のNZの人口は約510万人だが第一次世界大戦当時は人口100万人未満だ。これに対して10万人が従軍している。男性人口は50万人弱、さらに中高年・子供を除いた兵役適齢期の男子は20万人程度。つまり青年の2人に1人が志願してNZから遥か彼方の戦地に赴いたのだ。
当時は徴兵制ではなく志願兵である。『祖国を救え、国王への忠誠のために戦おう』という当時のスローガンがNZの津々浦々を覆っていた熱狂的愛国心を物語る。そして10万人の内、1万7000人が戦死し4万2000人が負傷という大変な犠牲を払った。第二次世界大戦では14万人が出征して1万2000人が戦死し1万6000人が負傷している。
ガリポリの戦いと4月25日の国民の祝日アンザック・デー
慰霊碑で頻繁に見かけたのは第一次世界大戦におけるガリポリ(Gallipoli)という地名である。調べるとガリポリはトルコのダーダネルス海峡近くの半島であり1915年4月25日にANZAC軍団が英仏軍と共に上陸した。
イースタンブール攻略を目的として黒海のロシア軍と呼応してトルコを挟み撃ちにするためにダーダネルス海峡を制圧することを目指した大作戦だった。しかし後にトルコ共和国初代大統領となるケマル・アタチュルク将軍率いるトルコ軍の反撃によりANZAC軍団は8700人以上が戦死。NZは派兵した約8600人のうち約2700人が戦死したという悲劇であった。
ガリポリに上陸した4月25日は現在では国民の祝日となっている。ANZACはNZ国民の誇りであり愛国心の象徴なのだ。
どこの町にもある退役軍人クラブ
どこの町でも一等地に退役軍人クラブが立派な建物を構えていることに驚いた。例えば南島の南東部のゴアは人口8000人だが退役軍人クラブ(Return Solders Association)にはターフ・ボーリング場やダイニングバーがあった。ちなみにターフ・ボーリングはスコットランド発祥でありスコットランド移民が拓いた南島の南東部地域では特に盛んらしい。
南島最南端のブラフや最北端のピクトンやクライストチャーチ近郊パパヌイの退役軍人クラブもダイニングバーや娯楽室を備え、英国伝統の紳士クラブのような雰囲気であった。聞いたところ各地の立派なクラブは政府補助金や地元企業からの賛助金で支えられているという。
19世紀末のボーア戦争から現在の国連平和維持軍まで戦い続けるNZ
ゴアの退役軍人クラブの外壁一面にNZが戦った戦争が描かれていた。ボーア戦争(1880~1902)、第一次世界大戦(1914~1918)、第二次世界大戦(1939~1945)、朝鮮戦争(1950~1953)、マラヤ(1948~1960)、ボルネオ(1964~1966)、ベトナム戦争(1966~1972)、平和維持活動(1964~現在)、アフガニスタン(2001~2003)、イラク(2003~2021)。その他に英国がアルゼンチンと領有権を争ったフォークランド紛争(1982年)にも艦船を派遣している。
東海岸のキャンプ場で知り合ったNZの元外交官氏によるとNZは大英帝国植民地から出発して自治領となり独立後も英連邦(Commonwealth)の一員として常に英国の戦争にオーストラリアと共に戦ってきた。そして第二次世界大戦後英国の太平洋での軍事力が弱まると米国主導のANZAS条約(Security Treaty between Australia, New Zealand and USA)により米国の戦争にオーストラリアと共に派兵してきた。ANZAS条約は1951年に豪蘭米により調印された相互攻守同盟であり、国連の平和維持軍には創設時から参加しているという。
元外交官氏によるとNZは人口が少なく19世紀末以降農林水産牧畜産品を輸出することで国民経済が成り立っており、海上通商路確保は死活問題であり、遠く離れた地域の戦争に参戦することで国際秩序維持に貢献してきたという。彼の見解によるとシーレーン確保という国益(national interest)のために自国とは無縁の戦争に派兵するのはNZの歴史的伝統的外交指針だという。同じ島国で貿易大国たる日本とは根本的に異なっているようだ。
NZの国際秩序維持における国際貢献
少し古いが2012年の資料によると平和維持活動(PKO)などの国連活動、多国籍軍への派遣、NZ独自の派遣を合わせたNZの海外派遣兵士は約500人。NZの当時の陸海空の正規兵は約8500人。
他方で当時の日本の陸海空自衛隊員は約24万8000人。日本は当時500人弱をPKOへ派遣していた。仮に日本がNZと同じ比率で自衛隊員を海外派遣したら1万4000人という大変な数になる。人口小国NZがどれほど負担の大きい軍事的国際貢献をしていることが理解できる。
しかも日本が自衛隊を派遣するのは安全が確保されている地域だけであるがNZは危険地域にも率先して派遣している。