2024年5月17日(金)

Wedge REPORT

2023年6月15日

吉野山の桜を全部買い取る

 より壮大な話は、庄三郎が吉野山の桜を全部買い取った件だろう。

吉野山の桜は守られた

 吉野山と言えば、今も昔も桜の山である。一目千本、全山3万本の桜で覆われ、春には咲き乱れる。桜はご神木ともされていた。ところが、明治維新の動乱で吉野山を訪れる人は激減した。また新政府の出した神仏判然令(神仏分離令)により、神仏混交の宗教である修験道は窮地に陥った。吉野山は、まさに修験道の中心地なのだ。あまつさえ廃仏毀釈運動が巻き起こり、寺院の廃院が進んでいた。
 
 そこに大阪の商人が吉野山の桜を買い取り薪にする話を持ち込んだらしい。当時は薪が日常の煮炊きや暖房はもちろん産業用にも欠かせないエネルギー源だったのだ。参拝行楽客がほとんどいなくなり生活の糧に窮していた吉野の民は、それを承諾した。そして桜を伐採した後にスギとヒノキを植えて吉野山で林業を行おうとしたらししい。

 その相談を受けた庄三郎は驚き、すぐ商人から受け取った金を返すよう、500円(現在の1000万円程度)を渡したという。おかげで桜は伐られず、現在まで咲き誇り続けている。晩年の庄三郎は「吉野山の桜は私が全部買い取った」と笑ったそうである。

 ちょっと不思議に感じるのは、林業家である土倉家にとって吉野山にスギやヒノキを植えるのも魅力的な選択肢であることだ。居住する川上村に隣接した地域であるし、スギやヒノキの苗を売り、植林や育林を手がけ、将来の木材の収穫まで請け負えば、土倉家にとっても悪い話ではなかった。だが、それをよしとはしなかった。むしろ新しい世では、日本も世界の国ともつきあうのだから、外国人が吉野山を訪れる日が来るだろう、そのためにも桜を残しなさいと言ったとされる。

 庄三郎の行動原理はすべて吉野林業に結びつくとする論評もあるが、吉野山の桜に対しては、林業以上に日本文化を守ることに重きを置いていたのではないか。

 なお文化を守るための社会基盤づくりにも力を尽くす。家憲には「郷里に飢えた者がいては一村の恥辱なり」という言葉が綴られ貧民に生活費を支給するほか、安定した生活基盤を築かせようとした。とくに大きいのは、川上村で養蚕を推進したことだ。無料で桑の苗を配って植えさせ、蚕を育て繭を生産することを教えた。できた繭は市場より高く買い取ることでやる気を出させて養蚕を村の産業に育て上げる。やがて「大和の養蚕」として有名になるが、それは奈良県が養蚕に取り組む10年近く前なのである。

 また紀伊半島の十津川村で発生した大水害の時には救援に動いただけでなく、その後の被災民北海道移住策にも番頭を送り込んで生活の立ち上げを支援している。

川上村大滝にある日本最大の磨崖碑「土倉翁造林頌徳記念」碑

 現在の川上村大滝には、吉野川に面した絶壁に「土倉翁造林頌徳記念」と刻まれた巨大な磨崖碑がある。高さ30メートル以上、一文字の大きさは2メートル四方。これは庄三郎の死後、生前世話になった林学博士の本多静六が、翁の頌徳を後世に伝えるために提案して築かれたものである。磨崖碑としては日本最大と言われている。また土倉屋敷跡(屋敷は戦後、伊勢湾台風で流される)には庄三郎の銅像が立つ。

 この磨崖碑と土倉屋敷跡は、川上村の文化財に指定されるだけでなく、文化庁が認定する日本遺産「吉野」の構成要素に含まれている。自らが文化財になったことに庄三郎も苦笑しているかもしれない。

   
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