2024年12月23日(月)

Wedge REPORT

2023年6月15日

 1888年6月5日、奈良市の淨教寺本堂で、東京大学教授で東洋美術史家のフェノロサの講演会が開催された。奈良県知事を含む数百人が参加して盛会だったという。

 そこでフェノロサは、「アジアの仏教美術は、この奈良において、完全なるものに仕上がったのだと、私は信じて疑わない」と切り出した。奈良をローマと似ているといい、その仏教美術は奈良の宝、いや日本の宝、世界の宝だとまで言い切る。そして近代化の名の元に日本の古い事物が捨てられていくことに警告を発した。

 この後、日本に「美術」や「文化財」という概念が生まれ、保護の気運が高まっていく。

 この講演会の場に土倉庄三郎がいた確証はない。しかし私は、フェノロサの言葉を聞いた可能性は高いと睨んでいる。庄三郎も古社寺の保存に力を入れ始めたからである。

・土倉屋敷跡に立つ土倉庄三郎の銅像

「古社寺保存の請願」とフェノロサ

 1896年には貴族院・衆議院の両議長に庄三郎を中心とする有志が「古社寺保存の請願」を提出している。ここで文化財、なかでも古社寺の建築や美術品などがいかに大切かと力説し、それが今失われようとしていると危機感をあらわにする。そして欧米諸国が日本の美術を称賛している、欧米を凌駕しているとさえ言われる。その保全は大和一国のためのみにあらず帝国の国体、国風、民俗に関わっている……と保全を訴え檄を飛ばしている。この請願内容には、フェノロサの講演と重なる部分が多いのである。

 そして翌97年には古社寺保存法が制定された。これが現在の文化財保護法の原点であり、国宝や重要文化財を指定して保護するきっかけとなった。

 もともと庄三郎は、文化財や古社寺の保全には関心が強かった。そして明治以降の苦境に陥った社寺を支援してきた。特に重要なのは、社寺の土地返還運動だ。明治政府は土地制度改革で上地令を発布し、社寺の領有する山林農地のほとんどを召し上げた。これまで社寺は、こうした土地からの収入で運営されていたため、経営維持が立ち行かなくなってしまう。そのため返還運動が各地で起きていた。

 庄三郎は、浄土宗総本山の京都の知恩院の返還運動に関わった。なにしろ知恩院の山号である華頂山が取り上げられ、表門から山門までの間の松林も国有地にされてしまったのだ。そこで寺院の景観を守るためと国に願書を国に提出し、6517坪を返還させた。

 土倉家は代々浄土宗に帰依している。ただ庄三郎は宗教宗派にこだわらなかった。天台宗や神習教の大台教会など他宗派の寺院も支援しているし、何よりキリスト教関係の学校や教会へ莫大な寄付をした。息子娘も全員がクリスチャンになっている。

 また吉野山の多くの寺社にも関わった。吉野宮(現吉野神宮)の建設に寄付するほか、如意輪寺の後醍醐天皇霊殿や庫裏などの修復にも関わった。これらは一例で、ほかにも多くの寺院を支援した記録が残る。


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