ただし、明石の活動は各国の秘密警察や保安機関からも監視されており、ロシアでは明石の情報提供者3人が逮捕、もしくは行方不明となっていたため、明石自身も相当慎重に行動していた。明石はトラブルを避けるために、金銭についてはとにかく先方の言い値で先に渡し、そのまま連絡が取れなくなるようなこともあったようである。
また、自分たちの郵便が開封されていることも承知の上で、手紙の文章の暗号化、筆跡の使い分け、あぶり出しの使用、封筒に別の書状を2通入れることで、いざという時の言い逃れをするためのアリバイ作りなどにも余念がなかった。
日本陸軍も明石の工作に期待しており、100万円(現在の価値で400億円以上)もの破格の機密費が支給され、戦争後、余った27万円の機密費が全て返還されたことはよく知られている(機密費なので、明石が懐に入れたとしても陸軍は確認できない)。
優れたインテリジェンス・オフィサーは、「国益」を唯一の指針とする。もし私益の芽がわずかにでも生じれば、相手方の買収工作などに引っかかってしまうリスクが高まり、情報活動は失敗に終わる。そう考えると、明石工作は国益のみを考慮した、一級のインテリジェンス活動だったと評価できる。後の陸軍中野学校は、明石の手記『落花流水』をテキストに指定するほどであった。同書は明石の情報工作の手法が具体的にまとめられたものであり、情報活動に携わる者には必読書とされたのである。
明石だけではなく、当時、欧州などに派遣されていた日本軍の武官や外務省公使からも多くの情報が寄せられ、日本の対露戦争を支えていたことは言うまでもない。
敵国から信頼を得て
自ら情報収集も
その中でも特筆すべきは、日本陸軍の石光真清少佐だ。石光も私益を無視して国益のために働き続けたことで知られ、家庭を置いて単身ウラジオストクに渡ったような人物であるが、インテリジェンス・オフィサーとしての能力は秀でており、満州のハルビンで写真店を開業しながらロシアの内情を写真に収め続けたのである。石光はロシアの東清鉄道会社やロシア軍から信頼を寄せられ、軍の依頼で東清鉄道の建設の様子を詳細に写真に収めている。
明石の場合は監視されていたがゆえに、ロシア人を使っての情報工作だったのに対し、石光は、ロシア側から信頼を勝ち取り、ロシア国内で自ら情報活動を行っていたのである。石光もロシア通であった田中義一との接点があったが、その後、栄達を極めた田中と比べると、昇進や栄誉とは無縁の人生を送った。
日露戦争後、石光は東京・世田谷の郵便局長を務め、17年に日本がシベリア出兵を行った際には再びシベリアに渡り、情報活動を行っている。石光の活動自体は長らく秘匿されてきたが、没後の42年に長男の真人が『諜報記:石光真清手記』(翌年『城下の人』≪二松堂≫として出版)を発表したことで、ようやく世間一般に知られるようになった。
日露戦争の裏では明石や石光のような有能なインテリジェンス・オフィサーの活躍があり、日本陸軍も情報活動の重要性を認識してそれらを活用していた。日露戦争における情報戦は日本の勝利に終わったといっても過言ではないだろう。