戦後の本格復興、工業化が始まり欧米日経済は急成長します(図-4)。エネルギー消費も急増し始めます。
世界のエネルギー消費は1900年からの50年間で約3倍になりましたが、50年からの10年間で約2倍、第一次オイルショックが発生した73年までの23年間で3.4倍になりました(図-5)。
この急増するエネルギー需要を支えたのは、20世紀になり大油田が発見されていた中東諸国の石油でした。第二次世界大戦後本格生産が開始され世界の需要を支えました。需要国においても安価な石油を利用する「流体革命」と呼ばれる石炭から石油への燃料転換が起こり、石炭は急速に需要を失っていきます。
日本、欧州主要国は、石炭生産のピークを1960年前後に迎え、それから石炭生産量は減少を続けます。第二次世界大戦前には100万人以上の炭鉱労働者を抱え、年間3億トン近くを生産していた英国でも60年ごろから生産が減少を始めます(図-6)。日本の石炭生産のピークは61年でした。
73年の第一次オイルショックを契機に、エネルギー源の多様化が始まり、石炭も見直されますが、欧州主要国、日本の炭鉱は採炭条件の悪化により生産が復活することはありませんでした。自国の石炭生産を失った主要国は、石炭の輸入を開始するようになりました。
石油時代で覇権争いへ
今から164年前の1859年8月27日、ペンシルバニア州北西部タイクスビルの南、今は州立オイルクリーク公園となっている地域の近くで、セネカ石油のエドウィン・ドレークが世界で初めて石油の商業生産を行う油井の掘削に成功しました。
原油は当初艀(はしけ)により、ピッツバーグに建設された製油所まで輸送されました。灯油がランプ用に精製され、それまでの鯨油に代わりました。58年にタイクスビルから近くの駅まで鉄道が敷かれ、62年にパイプラインが敷設されました。
ジョン・D・ロックフェラーは63年、ペンシルバニア州に隣接するオハイオ州クリーブランドに大規模製油所を建設し、灯油の製造を始めました。その灯油の品質がスタンダード(標準)になるとして販売も始まりました。
ロックフェラーは、全米の製油所の買収を進め子会社を通し80%を傘下に収め、原油の買い手として灯油の売り手としてほぼ独占的な地位を手に入れました。
ロックフェラーは、石油の生産から販売までを一貫して行うスタンダードオイルを通しやがて市場の9割を支配し、1890年の世界初の独占禁止法(提案した上院議員の名前からシャーマン法と呼ばれる)の成立を招きました。
スタンダードオイルは、1906年シャーマン法に基づき告発され、11年34社に分割されました。スタンダードオイル・オブ・ニュージャジーはエクソンになり、ニューヨークはモービル、カリフォルニアはシェブロンになりました。
灯油として照明用に使用されていた石油は、やがて自動車の燃料として利用されるようになります。07年にはフォードが自動車の大量生産を開始し、需要は急速に高まったが、テキサス、オクラホマ州で大油田が発見され、米国内の供給に不安はありませんでした。