2024年5月20日(月)

絵画のヒストリア

2023年9月3日

 しかし、ジャコバン派の恐怖政治による独裁が「テルミドールの反動」を呼んで暗転し、ほどなく指導者のロベスピエールも失脚、処刑された。

 「ロベスピエールよ、あなたは眠っている!時は過ぎ行く、貴重な時は流れてゆく」。『神々は渇く』の主人公、エヴァリスト・ガムランは、ジャコバン独裁体制が崩壊する前夜の国民公会の空気をこう伝えている。

 〈彼らはみんなそこにいる―。味方はかまびすしい叫びをあげ、黙々として。ロベスピエールがあの演説を読み上げると、国民公会の議員たちはぞっとするような沈黙を守っていた。そしてジャコバン派たちは感激の拍手を送る〉(同)

 逮捕を前にしたロベスピエールは、同志たちに「これは私の死の遺言だ。諸君は私が毒人参を泰然として飲むのを見るだろう」と問いかけた。

 かたわらのダヴィッドが応じた。

 「私も君と一緒に飲むだろう」

 ロベスピエールは断頭台に送られ、国民公会議長のダヴィッドは逮捕されてリュクサンブール監獄に収監された。

 ジャコバンの同志の非業の死と二度にわたる収監、そして恩赦による釈放という時間の経過は「革命の記録画家」の足場を大きく揺るがせた。

 そのころの画家の心の内の煩悶は、《自画像》やローマとの戦いの和睦に立ち上がった女性たちを描いた《サビニの女たち》に映し出されている。

ナポレオンとの出会いから〝名画〟が生まれるまで

 幽閉からようやく放たれた画家の運命を変えたのは、王政復古でフランスの皇帝となる青年将軍、ナポレオン・ボナパルトとの出会いであった。

 「皇帝の首席画家」への劇的な場面転換へ向けて道が開くのである。

 ダヴィッドがナポレオン・ボナパルトと出会ったのは、恩赦で収監を解かれた2年後の1797年である。まだ28歳の将軍はイタリア遠征に従軍画家としてダヴィッドの弟子のジャン・アントワーヌ・グロを伴い、多くの戦争画を描かせた。

 帰国したボナパルトは王党派の攻撃にさらされていたグロの師であるダヴィッドを晩餐会に招き、その席で画家から肖像画制作の申し出を受けた。そして自らポーズをとるためにルーヴル宮のアトリエを訪れたのである。

 内弟子のエチェンスがその時の印象を伝える。

 〈木造の小さな階段を、小走りにかけのぼったナポレオンは、帽子を手にしてアトリエに入ってきた。襟付きの青いマントを着ているだけで、なんの飾り立てもしてないが、マントの色が黒い襟飾りの色と入り交じって、ナポレオンの痩せた黄色い顔を浮かび上がらせた。光線の加減で、その時のナポレオンの顔は美しく見えた〉(大島清次『ダヴィッド』新潮美術文庫)

 ルーヴル美術館が所蔵する未完の《ボナパルト将軍》は、のちにナポレオンから「皇帝の首席画家」を任命されるダヴィッドのその時のポーズを下絵にして描いた、最初のナポレオンの肖像画である。

 執政ボナパルトは1800年、再びアルプスを越えてオーストリア軍を破り、イタリアをほぼ版図に組み入れた。求めに応えてそのアルプス越えの勇姿をダヴィッドは大胆な構図に再現した。いま〈ナポレオン〉の図像学的なシンボルとなっている《サン・ベルナール峠を越えるボナパルト》である。

ダヴィッド「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」(1801年、油彩・カンバス、マルメゾン宮国立美術館蔵)(GraphicaArtis/gettyimages)

 馬上のボナパルトは赤色のマントを翻して右手の人差し指を上げ、それははるかな峠を指している。後ろ足で立って咆哮する白馬にまたがったボナパルトの足元の岩にはハンニバル、シャルルマーニュとともにその名が刻まれ、彼が三人目の歴史の英雄であることを、そこに明示している。

 それまでの肖像画の規範を超えて、像主のまなざしは観る者、すなわちフランスの国民に向けられているのであろう。新しい時代の英雄的指導者の肖像が、プロパガンダ美術としてここに生まれたのである。


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